秘めた恋は、焔よりも深く。
しばらく美咲を見つめたまま、龍之介はゆっくりと視線を外した。
グラスをテーブルに戻し、低い声で言う。
「……今度は俺が行ってくる」

立ち上がると、腕まくりをしながらタオルを手に取り、脱衣所へと向かう。
普段着のシャツ姿のままでも、その背中には大人の男の落ち着きと抑え込んだ熱が漂っていた。

「はい……」
美咲は小さくうなずき、浴衣の袖を指先で握りしめながら、その背中を見送った。


夜気をまとった露天風呂に身を沈めると、じんわりとした熱が全身を包み込む。
肩まで浸かり、空を仰ぐ。星々が静かに瞬いていた。

龍之介は長く息を吐き出し、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、美咲の姿だった。
キャメルベージュのスーツに身を包み、真剣な眼差しで自分に並んでいた昼の彼女。
浴衣に着替え、湯上がりの頬をわずかに紅潮させていた、さっきの彼女。

「……この週末を、ずっと待っていた」
口に出した言葉が、湯気の中に消えていく。

何度も抑えようとした。
上司としての顔を崩さず、部下としての彼女を守るために。
だが、ふたりきりになった瞬間にあふれ出すこの想いは、もう誤魔化せない。

俺は、ただ彼女が欲しいんじゃない。
この先もずっと、手放したくない。

湯面に映る自分の顔を見つめながら、龍之介は静かに目を閉じた。
頭の奥に、かつての結婚生活の記憶がよみがえる。

無精子症。医師から告げられた言葉は、今も胸の奥に深い傷を残している。
子供を望んでいた前妻との間で、その現実は避けがたい溝となり、やがて離婚へと至った。

「……だから、手放した」
あのときの自分を思い返す。
未来を与えられないなら、彼女を縛るわけにはいかないと。
正しい選択だったと頭では理解している。
けれど心のどこかで、今も苦い後悔が残っていた。

もし、美咲が同じように子供を望んだら?

夜空に浮かぶ星を見つめながら、龍之介は思わず眉を寄せる。
今度も、また同じ理由で愛する人を手放せるのか。
いいや、無理だ。
彼女だけは二度と失えない。

湯に沈めた拳が、湯気の中で震えた。
過去の傷と現在の執着がせめぎ合い、胸の奥で熱を帯びていく。

龍之介が湯から上がり、髪をタオルでざっと拭きながら室内に戻ると
そこに美咲の姿はなかった。

不意に視線を動かすと、ガラスのドアの向こうに彼女の後ろ姿が見えた。
テラスに設置された暖炉の前、揺らめく炎を見つめながらチェアに腰掛けている。
浴衣姿の肩越しに映る横顔は、炎に照らされて淡く赤みを帯びていた。

龍之介は一瞬、足を止めた。
近くにいるのに、どこか遠い。
そんな感覚が胸を締めつける。

炎のはぜる音と、夜の虫の声だけが響く静寂の中。
彼はガラスのドアに手をかけ、美咲のいる世界へと歩み出した。
秋の山の夜気は想像以上に冷たく、炎の前に座っていても浴衣一枚では心もとない。
美咲は腕を組むようにして身を寄せ、ゆらめく薪の炎に視線を注いでいた。

その背後から、ふわりと温もりが降りてくる。
龍之介がブランケットを持って現れ、そっと彼女の肩を包み込んだのだ。

「……これだけじゃ寒いだろう」

低い声に振り向いた瞬間、炎の光が彼の横顔を照らした。
その眼差しには、ただの気遣い以上の熱が宿っている。

「ありがとうございます」
美咲は小さく頷き、ブランケットの端を指先で握りしめる。
龍之介は彼女の隣に腰を下ろし、しばし炎を見つめながら静かに息を吐いた。
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