秘めた恋は、焔よりも深く。
電話を切った美咲は、胸の高鳴りを抑えきれずに呟いた。
「……なんだか、ちょっと早すぎる気がするわ」

龍之介は即座に首を振った。
「早すぎるものか」
その瞳には一片の迷いもない。
「今日は平日だろう。今から区役所へ行って、婚姻届けをもらってこよう」

「ええっ⁈」
美咲の声が裏返る。

「善は急げっていうだろう?」
龍之介は真剣な顔のまま、冗談めかした響きを残す。
その勢いに、美咲はただ呆然としながらも、胸の奥が熱く揺さぶられていた。

区役所を後にして、昼下がりの陽射しを受けながら並んで歩く二人。
龍之介が美咲を振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。

「少し歩きながら、話さないか?」

美咲は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。
「……うん、いいわよ」

ふたりは自然に歩調を合わせ、肩が触れるほどの距離で並んで歩き出した。
手にした婚姻届が、これからの未来の重みをそっと伝えてくる。

歩きながら、龍之介はふと足を緩め、美咲に問いかけた。
「……前の結婚のことを話してもいいか?」

美咲は少し驚いたが、穏やかに頷いた。
「うん。知りたい……かな」

龍之介は空を仰ぎ、深く息をついてから口を開いた。
「前の妻とは、大学からの付き合いで……恋愛結婚だったんだ。
子供も当然ほしくて、それは彼女の夢でもあった」

言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「……愛していたから、別れた。それ以来、連絡は取っていない。
同級生から……彼女が再婚して、子供も生まれ、幸せに生きていると聞いた」

美咲は黙って耳を傾ける。

「離婚してから、数年は本当に辛かった。
痛みを感じるたびに……もう結婚は二度としない、一人でいいって、ずっと思っていたんだ」

龍之介は歩みを止め、美咲の方へと向き直った。
「だから……美咲への気持ちを、何度もごまかそうとした」
低く絞り出すような声。
「でも、できなかったんだ」

美咲の瞳をまっすぐに捉え、言葉を重ねる。
「今朝……“愛してしまったんだ”と言ったのは、そういう意味だ」

過去に背を向けてきた男が、ようやく差し出した本気の告白。

美咲は静かに首を振った。
「……私も、自分の気持ちに気づかないようにしてたの」
龍之介を見つめながら、ゆっくりと告げる。

「私の前の結婚はね……恋愛のようでいて、実際はお見合いのようなものだったの」
かすかに笑みを浮かべて続ける。
「まあ……結局は離縁されたんだけど」

龍之介の眉がわずかに動く。
けれど、美咲は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「でも、もう昔のことなのよね。今は……ちゃんと吹っ切れてる」

その穏やかな笑顔に、龍之介の胸の奥がじんと熱くなる。

再び歩き出したふたり。
龍之介がふと横を見やり、低く尋ねた。
「なあ……一緒に暮らすこと、まだ迷っているか?」

美咲は少し視線を伏せ、ぽつりと答える。
「……ううん。今日は嫌だけど」

「なんだ、その“嫌”っていうのは」
思わず苦笑する龍之介。
「だったら、明日ならいいんだな。……よし、明日だ」

きっぱりと言い切る彼に、美咲は呆れたように目を丸くした。
「これ以上は譲歩できないぞ」

「……龍之介さんが、これほどまでに強引とは知らなかったわ」
そう言いつつも、頬にほんのり朱が差していた。

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