秘めた恋は、焔よりも深く。
賑やかな会話がひと段落した頃、営業部の高瀬が、ふと美咲に向かって言った。
「……あの、佐倉さんって、黒瀬さんのこと、どう思ってるんですか?」

「え?」

思わぬ質問に、美咲は少し目を見開いた。
「どうって……? うーん、できる上司、かな」

「いや、まあ、そうなんですけど」
高瀬はどこかもどかしげに言葉を続ける。

「その、男性としては……見れます?
それとも……おじさんすぎて無理とか、そういう感じなんですか?」

「おじさんすぎる、ってことはないかな」
思わず笑いながら返す。

「でも、男性として意識したことは……正直、ないかも。
それに……私、家事全般があまり得意じゃなくて」

そこまで言ってから、美咲は少しだけ目線を落とす。
「特に料理。黒瀬さんって、すごく忙しい人でしょう?
そういう人には、ちゃんと栄養とか整えてくれる、家庭的な女性の方が合ってると思うの」

すると、高瀬が即座に返した。
「え? 俺の彼女、料理全然できないですけど、気にしたことないですよ。
むしろ俺のほうが得意だし」

「えっ……?」

「男が女性に求めるもんって、人それぞれだと思うんですよね。
俺は、“家事できるかどうか”って、あんまり重要じゃないです」

隣で聞いていた池田も、ビールを片手に言葉を添えた。

「俺もそう。
母親が専業主婦だったけど、親父がけっこう台所に立っててさ。
それが普通だったから、“女が家事するのが当たり前”みたいな感覚、俺、あんまりないなあ」

美咲は、軽い衝撃を受けていた。

(……そんなふうに思う男性、いるんだ)

今まで、自分の中では当たり前のように刷り込まれていた。

「料理ができなければ愛されない」
「家庭的でなければ、選ばれない」

それはずっと過去の痛みとセットで、自分を縛ってきた考えだった。

けれど。

今、こうして目の前の若い男性たちが、
ごく自然に「それは違う」と言っている。

それが、どこか信じられなくて。
でも、少しだけ、心がふっと軽くなるような感覚があった。

「……なんか、時代って変わってきてるのね」

そう言うと、高瀬が笑った。
「まあ、昭和じゃないですから」

池田も冗談まじりに言う。
「逆に、料理ばっかり期待されるとプレッシャーだっていう女子もいると思いますよ?」

思わず、美咲は笑った。
驚きと照れと、ちょっとだけ嬉しさが混ざった笑いだった。

金曜の夜の街は、週末に向けて賑わいを増していた。
けれど、美咲が歩く帰り道は、ひんやりとして静かだった。

駅前から少し離れた住宅街。
ヒールの音が控えめに響くアスファルトの上を、一歩一歩、ゆっくりと歩く。

(……今日は、驚くことばかりだったな)

黒瀬の視線の話。
社長との関係。
「料理ができなくても、いい」という部下たちの素直な価値観。

自分の思い込みが、いくつも少しずつほどけていくような夜だった。

でも…

(楽しかった)
その言葉が、すっと胸の奥に広がった。

会計は、自分がまとめて払った。
久しぶりの参加だし、たまには上司らしいことをしてみようと思ったのだ。
部下たちは恐縮しつつも、本当に嬉しそうに笑ってくれた。

「今度は割り勘にしましょうね、佐倉さん!」
「佐倉さんと飲めて、すごく楽しかったです。
ほんとに嬉しかった……また行きましょう!」

そんなふうに言われたことが、思いのほか胸に残っていた。

(……そう言ってもらえるなんて、思ってもみなかった)

誰かと笑って、誰かの話を聞いて。
一緒に食べて、飲んで、ただ穏やかな時間を過ごす。
それだけのことが、こんなにも心に沁みる。

(私は……ただ、こういうふうに、誰かと過ごすのが怖かっただけかもしれない)

傷つくのが怖いから、
求められる自信がないから、
だから、最初から距離を置いていた。

でも、今日。

ちゃんと“ここにいていい”と感じられた。

夜風が少し冷たくて、でも不思議と心はあたたかかった。
コートの襟を直しながら、美咲は小さく息を吐いた。

(……また行ってもいいかもしれないな)

そんなふうに思える自分に、少し驚きながら、
小さな微笑みを浮かべて、夜道を歩いていった。

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