秘めた恋は、焔よりも深く。
(……また、行ってもいいかもしれないな)

そう思ったときだった。
胸の奥に、ふっと冷たい何かが流れた。

足が自然と止まり、振り返る。
けれど、そこには誰もいない。

(気のせい……?)

そう思って、再び歩き出そうとした瞬間だった。
背後に、微かに、誰かの足音がした。
ヒールではない、もっと重い、地を押すような音。

(……え?)

急に、心臓が音を立て始めた。
息を詰める。
持っていたバッグを無意識に強く抱える。
スマートフォンに手を伸ばそうとして、指がかじかんでいることに気づく。
視線は前を向いているのに、
すべての神経が背中に集中していた。

(どうしよう……この先、交差点があれば……)

心の中で、選択肢を必死に探す。
声を出すべきか。
走るべきか。

(……!)

後ろからの足音がぴたりと止んだ次の瞬間、
何かが、誰かの腕が、背後から美咲の身体をがしりとつかんだ。

「……っ!?」

驚く間もなく、背中にぴたりと押しつけられる男の体。
その腕が、美咲の両肩を包むようにして絡みついてくる。

「いやっ……! やめて……離して……っ!」

声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。
震える手で腕を振りほどこうとするが、
男の力は圧倒的に強く、逃れられない。
息が詰まる。身体が硬直する。
頭が…真っ白になる。

(怖い……怖い、誰か……誰か助けて)

「……っ! や、やめて……っ!!」
懸命に叫ぶその声が、闇に吸い込まれそうになったときだった。

「何をしている!」

鋭い怒声が響いた。
その瞬間、腕の力が一瞬緩んだ。

「離れろッ!」

走ってきた影が、美咲の視界の端を鋭く横切る。
鋭い足音、急停車する車の音、そして次の瞬間には、
「佐倉さん、下がって!」

その声に、目を見開く。
黒瀬、龍之介。

彼が男の腕を乱暴に引きはがし、
鋭い力で壁に押しつけていた。

「ふざけるな……通報するぞ」

男はもがこうとしたが、龍之介の押さえる手はびくともしなかった。

美咲はその場に立ち尽くしていた。
震える手、乱れた呼吸、何が起きたのかを理解する前に、
ただ、涙だけがにじんでいた。

龍之介が男を睨みつけたまま、手元のスマートフォンを取り出す。

「佐倉さん、大丈夫ですか。すぐ、警察呼びますから」

その声に、ようやく身体が反応した。

(助かった……)

目の奥に、こみ上げる涙。
何かを言おうとしても、喉が震えて言葉にならない。
その夜、美咲はただ静かに、自分が守られたということを、
身体の奥で震えながら感じていた。

ほどなくして、パトカーが到着した。

「通報を受けて来ました。……被害に遭われた方は?」

龍之介の通報を受けた若い警察官が、現場を確認しながら話しかけてくる。

美咲は震える指先で、髪をかきあげながら一歩前に出た。
「……はい。私です」

「お怪我は?」

「……いえ、大丈夫です」

声がかすれる。
気丈に答えたつもりだったが、自分でも気づくほど、声が震えていた。

龍之介はその横で、冷静に状況を説明していた。
犯人の男は、すでに警官に連行されつつある。

「突然、背後から抱きつかれました。彼女は必死に抵抗していました。私は車で通りかかって……」

その声が、どこまでも落ち着いていて、安心感を与えてくれる。
けれど、ほんのわずかに滲む怒りの気配も、美咲には感じ取れた。

事情を確認したあと、警察官は丁寧に話した。

「このあとの手続きについては、明日以降、改めてご連絡させていただきます。
おひとりで帰れますか?」

「……いえ、彼女は今、精神的に動揺しています。私が送ります」
龍之介が静かに、しかしはっきりとそう答えた。

警官が頷き、ふたりはその場を後にした。
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