秘めた恋は、焔よりも深く。
車に乗り込むと、しばらくふたりの間に言葉はなかった。
夜の街を静かに走る車内。
エンジン音とウィンカーのリズムだけが、美咲の耳に残る。

ようやく、龍之介が口を開いた。
「……怖かったでしょう」

その一言に、張りつめていたものがふっとほどけそうになる。
「……はい」

短くそう答えたあと、言葉が続かなくなった。
喉の奥がつまって、涙がにじんできた。

「でも……助けていただいて、本当に……ありがとうございます」

そう言うと、美咲は小さく頭を下げた。
視線を伏せたまま、握りしめたバッグが震えていた。

龍之介は運転しながら、そっと言った。
「当たり前のことをしただけです。
……でも、私が通りかからなかったらと思うと、正直、震えが止まりません」

その声に、はじめて彼自身の動揺がにじむのを感じた。

「あなたが無事でよかった。それだけです」

美咲はその言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

ずっと、ひとりで平気なふりをしていた。
誰にも頼らなくても生きていけると思っていた。
でも、今夜。
自分のために声を上げ、駆け寄ってくれた人がいたことが、
どれほど心強く、どれほど救いだったか。

(私は、守られたんだ)

夜の車窓に流れる灯りが、まるで涙のように揺れていた。

「……ここで大丈夫です。あとは自分で……」

美咲はそう言いかけた。
けれど、龍之介は一言も返さず、黙って助手席側のドアを開けた。
二人が並んで歩く音が、夜の空気に消える。
並んで歩く足音だけが、ゆっくりとアスファルトを刻んでいく。

(……最後まで、送るつもりなんだ)

「心配だから」
そう、彼はぽつりと呟いた。

その言葉に、美咲は返す言葉を見つけられなかった。
無理に断ったところで、この人は引かない。
それがわかっていた。
マンションのエントランスに着いても、彼の足は止まらない。
エレベーターに乗り、玄関の前まで。
結局、何も言えないまま、彼に付き添われるようにして、ここまで来てしまった。

「鍵、開けられるか?」

ふと向けられた声が、思いのほか優しくて、胸が少しだけふるえた。
「……はい」

ポーチから鍵を取り出し、震えを帯びた手でそっと鍵を差し込む。
カチリと音を立ててドアが開いたとき、
ふたりの間に、静かな余白が流れ込んだ。

(送ってくれて、ありがとう)

けれど、それを言葉にする前に、
龍之介の手が、そっと自分の肩に触れた。
玄関の灯りに照らされて、ようやく自分の部屋に戻ってきたはずなのに、
美咲の胸には、まだ冷たく震える余韻が残っていた。

「……佐倉さん」

低く落ち着いた声が背後から響く。

振り返るよりも早く、そっと肩に温もりが触れた。

龍之介だった。
一歩だけ中に入り、言葉よりも先にその腕で、美咲を抱きしめた。

「……もう、大丈夫だから」

その囁きが、身体の芯まで届く。
驚いたはずなのに、拒む気持ちはどこにもなかった。
ただ、包まれる感覚だけが静かに広がっていく。

(……どうして、こんなふうに)

力強くも、壊れ物に触れるような優しさがあった。
何も言わずに、彼の胸に顔を伏せたまま、美咲はしばらく動けなかった。

やがて、腕がそっとほどかれる。

「携帯、貸して」
「ロック、解除して」

唐突な言葉に、美咲は戸惑いながらも、言われるままスマートフォンを差し出す。

龍之介は、自分の番号を入力し、
“黒瀬龍之介(私用)”と登録した。

そして、美咲に画面を戻しながら静かに言った。
「いつでもかけてきていいから。遠慮しないで」

その口調に、強引さと優しさがないまぜになっている。
まるで、“逃がさない”とでも言うような真剣さだった。

美咲は、受け取ったスマートフォンを見つめながら、
小さく頷いた。
(……なんだろう、この感じ)

安心と戸惑いと、そして名前を呼ばれることの余韻。
胸の奥で、何かが小さく震えていた。

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