秘めた恋は、焔よりも深く。
「ここ、実は一度来てみたかったんです。お昼は並んでることが多くて……夜なら空いてるかもって思って」

美咲が、どこか嬉しそうに言う。
その言葉に、龍之介は暖簾を見上げて、ゆっくりと頷いた。
「……ああ、ここ」

「ご存じでした?」

「うん。何年か前に、一度だけ。知人に連れてこられて。料理が静かで丁寧だった記憶がある」

「静かで……丁寧?」

「うまく言えないけど。主張しすぎないのに、ちゃんと印象に残る味だった」

その言い回しが、どこか美咲自身の雰囲気とも重なって、
彼女は少し驚いたように龍之介を見た。

「ここ、個室もあるし、落ち着いて食べられる」
(……この人、食事にもこんなふうに、感じるんだ)

美咲の胸の奥に、小さくあたたかいものが灯る。
自分が選んだ場所が、偶然とはいえ、彼にとっても記憶のある店だったというのが、嬉しかった。

「……じゃあ、久しぶりの再訪ですね」

「そうだな。今回は、きっと記憶の味とは違う。……相手が違うから」

そのひと言に、美咲は思わず視線を逸らす。
けれど、その頬に浮かんだかすかな赤みは、店の灯りのせいだけではなかった。
料理が運ばれ、湯気の立つ器を前に、ふたりはしばらく食事を味わっていた。
店内は落ち着いた和の調度に包まれ、静かな音楽と、控えめな会話だけが響いている。

ふと、美咲が口を開いた。
「黒瀬さんって……読書、されますか?」

「読むよ。出張の移動中に読むことが多いけど。ジャンルは……割と偏ってるかもな」

「たとえば?」

「村上春樹とか……あと宮本輝も好きだ。静かな語り口のなかに、余韻があるような小説が落ち着く」

「……あ。私もです。特に宮本輝は、何度も読み返していて。『錦繍』とか……あの手紙のやり取りの静けさが、なんだか染みて」

「わかる。あれは、時間がゆっくり流れていく感じがいい」

思わず見つめ合い、小さく笑い合う。
食の好みだけじゃない、読書の趣味も似ているという偶然が、ふたりの距離をじわりと近づけた。
「映画は?」

「観ますよ。邦画も洋画も。最近は、静かな人間ドラマが好きですね」

「俺も。派手なアクションより、感情がじわじわ動くやつ。最近だと、『ラストレター』がよかったな」

「……ほんとに、好みが似てますね」

「かもしれないな」

美咲は箸を置き、盃をそっと口元に運びながら聞いた。

「アウトドア、お好きなんですよね?」

「うん。昔から。眺めてるだけで癒される」

「……私も自然の中でぼーっとしているのも好きです」

龍之介の目が、すっと美咲に向けられた。

「本当に?意外だな」

「よく言われます。最初はきっかけがあって、でも……自然の音の中にいると、落ち着くんです」

「わかるよ。静けさの中に身を置くと、いろんな雑音が消えてくれる」

ふたりは、共に湯気をたてる椀を前に、同じように頷きあった。

「……ちなみに、スポーツとかは?」

「バスケ。社会人チームに入ってる。体動かしてないと、デスクワークに殺されるからな」

「バスケ……似合いますね」

「なんで?」

「黒瀬さん、背が高いから。動きも、無駄がないというか……見てて、整ってるって感じるときがあります」

「……それは、褒め言葉として受け取っておく」

ふっと笑う龍之介。その余裕のある仕草に、美咲も笑みを返す。

「実は、剣道もやってたんだ。学生のころだけど。」

「剣道……意外ですね。」

「バスケと似てるところもあるけど、剣道は心を鍛える部分が大きいから、今でも少しは役立ってる気がする。」

「へえ……素敵ですね。」

「私は……茶道です。全然きちんとしてるわけじゃないですけど、心が静かになるから」

「それ、すごくいいね」

「ありがとうございます」

龍之介は少し考え込み、次に尋ねた。
「茶道……興味深いな。どんなときに一番心が静かになるんですか?」

美咲は少し微笑みながら答える。
「やっぱり、茶室に入って静かな空間に身を置くと、自然と心が落ち着くんです。
何も考えずに、ただその瞬間に集中する。それが心地よくて。」

「なるほど……そういう時間、必要だよね。」

龍之介がふっと笑い、目を細めた。
「じゃ、今度、俺のために茶をたててくれる?」

美咲は少し驚きながらも、慎重に答えた。
「機会があれば、ぜひ。お茶をたてるのは楽しみですから。」

「本当に?じゃあ、楽しみにしてるよ。」

杯を傾けながら、ふたりの間には、
趣味という名の静かな糸が何本も繋がっていった。
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