秘めた恋は、焔よりも深く。
「……ところでさ」
杯を置いた龍之介が、美咲を見ながらふっと表情を和らげた。
「キャンプのとき、何食べてる?」

その何気ない問いかけに、美咲は少し驚いたように目を丸くし、それから笑った。
「そんなに本格的なものは作れないんですけど……」
美咲は少し恥ずかしそうに笑った。
「焼き野菜とか、スキレットで炒め物くらい。あとは、お味噌汁を少しだけ。インスタントじゃなくて、出汁くらいは取ってみようかなって、頑張ってます」

「……苦手って言ってたけど、それ、十分すごいと思うけど」

龍之介の言葉に、美咲は苦笑する。
「ほんとに、家ではろくに料理しないんです。なのに、キャンプだと……ちょっと試してみたくなるんです。不思議ですね」

「わかるよ。自然の中にいると、丁寧に手をかけたくなる。たとえ不器用でも、それってちゃんと味になるから」

「……そう言ってもらえると、ちょっと救われます」

「いや、俺なんか、レトルトカレーとかカップラーメンばっかりでさ」

龍之介が少し肩をすくめて言うと、美咲は目を丸くした。
「意外です……道具とか、こだわりそうなのに」

「道具にはこだわる。でも、調理はあまりしないな。焚き火を眺めてるのがメインって感じで」

そこでふと、龍之介が小さく笑う。
「……でも、コーヒーにはこだわるぞ」

「コーヒー?」

「焙煎した豆を挽いて、ドリップで。火を見ながら淹れると、香りまで沁みてくるんだ」

美咲はその情景を想像し、ゆっくりと頷いた。
「それ……すごくわかります。私も、火が揺れてるのを見ると、全部がほどけていくような気がして」

視線がふと重なり、ふたりの間に、静かな共鳴の余韻が流れる。
言葉よりも、感覚で通じ合うような、そんな時間だった。

「そういえば、佐倉さんはコーヒー、好き?」

食後の余韻が残るテーブルで、龍之介がふと思い出したように聞いた。
美咲は軽く頷く。

「はい。毎日は飲まないけれど……丁寧に淹れたコーヒーは、好きです」

龍之介はその答えに小さく笑みを浮かべる。
「この近くに、とても落ち着く珈琲専門店があるんだ。よかったら、行かないか?」

「……お時間、大丈夫なんですか?」

そう聞く美咲に、龍之介は少し笑いながら答える。
「うん。今夜は仕事もないし……真樹が奥さんとデートらしくてさ。おかげで、こっちは自由時間」

思わず、美咲もつられて笑った。
「ふふ、では……ご一緒させていただきます」

軽やかに立ち上がるふたり。
その一歩が、これまでの“仕事上の距離”を、そっと越えていくような気がして…
美咲の胸には、静かにあたたかなものが灯っていく。

小さな路地を曲がった先に、その店はあった。
古民家をリノベーションした静かなコーヒー専門店。外観は控えめなのに、ガラス越しの灯りが温かく、
どこか懐かしさを感じさせた。
店内に入ると、木の香りと焙煎された豆の香ばしさがふたりを包む。
席は奥の窓際。小さな観葉植物がさりげなく置かれた、二人用のテーブルだった。

「ここ、落ち着きますね……」
美咲がそう呟くと、龍之介が穏やかにうなずいた。

「だろ?時間がゆっくり流れてる感じがして、好きな店なんだ」
メニューを開くと、数種類のシングルオリジンとハンドドリップ。
龍之介は慣れた様子で「エチオピアをペーパードリップで」と頼むと、美咲にも視線を向けた。

「佐倉さんは、酸味のあるのと、コクのあるの、どっちが好き?」

「……コクのある方が、好きかもしれません」

「じゃあ、グアテマラ。ここのは、しっかりしてて優しい」

ふたりの前に湯気立つカップが運ばれた頃には、会話も自然に深まっていた。

「こういう時間、久しぶりです。仕事以外で、誰かとゆっくり過ごすのって……」

「わかる。俺も似たようなもんだよ。つい、仕事中心の生活になってるから」

「黒瀬さんみたいな方でも、そうなんですね」

「……佐倉さんが思ってるほど、俺は立派な人間じゃないよ」

苦笑するように言った龍之介の横顔は、いつもより柔らかかった。
「むしろ、さっきの佐倉さんの話……火を見て心がほどけるっていうの、すごくよくわかって。……俺、そういう感覚を大事にできる人って、いいなって思う」

「……そんなふうに言われると、なんだか照れます」

頬を染めながら笑う美咲に、龍之介はふっと目を細めた。

「また一緒にコーヒー、飲みに来ようか」
静かな声。けれどその一言には、確かな温度が宿っていた。

「……はい」

美咲は小さくうなずいた。
その夜のコーヒーの香りは、不思議と心の奥まで沁みわたっていた。
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