秘めた恋は、焔よりも深く。
七海の姿が店の外に消えていくのを見届けてから、龍之介はようやくグラスの水を一口含んだ。

(……まったく、余計なことを)

口ではそう言いながらも、どこか落ち着かない感情が胸の内に残っていた。

一瞬だけ、美咲の表情が曇った。
いつもの冷静な彼女が、ほんのわずかに目を伏せた、その一瞬。

(……あれは、何の顔だったんだろうな)

驚きか、気まずさか、それとも。

龍之介の胸に、妙な焦燥感がじわりと湧く。
七海が発した「彼女さんですか?」という言葉に、美咲が一瞬返せなかったことが、なぜか強く引っかかっていた。

(違う。そうじゃない……ただ、俺は)

否定する言葉を頭の中で並べながら、それでも、美咲が他の誰かに笑いかけている姿を想像するだけで、
自分でも気づかぬうちに喉が渇いていた。

(……やっぱり、気になってるんだ)

その認識を、ようやく自分の中で言葉にできた気がした。
彼女は、冷静で、凛としていて、
でも、ときどき、無防備な一面をのぞかせる。
先日の夜、あの腕の中で震えていたぬくもりも、
今日こうして笑い合って過ごした時間も。
すべてが、静かに、けれど確実に、彼の中に残っていた。

ふと視線を上げると、美咲が向かいの席で水を飲んでいた。
少し頬が赤らんでいるのは、照明のせいか、それとも。

「……なあ、美咲」

気づけば、名前で呼びそうになっていた。
慌ててグラスを持ち直し、少しだけ首をすくめる。

(……どうする、俺)

平静を装って笑う彼の目だけが、さっきよりもずっと真剣な光を帯びていた。

グラスに残った水を指でなぞるようにして、美咲が口をひらく。
「……可愛らしい方ですね、七海さん」

「うるさくて、悪かったな。あいつ、妙に勘がいいっていうか……余計なことばかり言う」
そう言いながら、龍之介の声はどこか優しく緩んでいた。

美咲は微笑む。
「……いいと思います。家族仲がいいって、素敵なことですから」

ふと、龍之介が視線をそらした。
「……驚いた?」

「え?」

「さっき、“彼女さんですか”って言われたとき。少し、顔が曇ってたように見えたから」

美咲は目を丸くし、すぐにうつむく。
「……そう見えました? びっくりしただけ、です。てっきり……」

そこで言葉を切る。

(てっきり、恋人かと思った。そう言えるわけがない)

「……てっきり?」

「いえ。なんでもないです」

苦笑する彼女を見て、龍之介は静かに息を吐いた。

「……俺は、佐倉さんに誤解されたくなかっただけだよ」

「……そうですか」

美咲の指先が、グラスの縁をすべって止まる。
「……じゃあ、もし私が、誤解したままだったら?」

冗談のように言ったつもりだった。
でも、沈黙が返ってくる。

目を上げると、龍之介が真っすぐにこちらを見ていた。
「……それは、まずいな」

「どうして?」

「だって、俺は……その誤解を、ちゃんと解きたくなるから」

一瞬、鼓動の音だけが耳に響く。
美咲は何か言おうとしたが、言葉にならず、ただ水を口に運んだ。

龍之介はそれ以上何も言わず、ただ微笑んだだけだった。
けれど、その笑みの奥に、確かに何かが揺れている気がして.....
美咲の胸は、静かに波を打っていた。
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