秘めた恋は、焔よりも深く。
「佐倉さん。こんにちは」
その穏やかで低い声に、美咲はふと足を止めた。
ラウンジ前のガラス扉に立っていたのは、松田商事の専務──松田圭吾だった。
「松田専務。いらしていたんですね」
「はい。滝沢社長と少し、今後の業務連携について」
軽く笑ってから、彼はちらと視線を逸らし、何気ないように言葉を続ける。
「この間、少し耳にしたんです。お住まいをお引っ越しになるとか」
「え……あ、はい。突然、建物の売却が決まって。180日以内に退去することになりまして」
「ああ、それは……驚かれたでしょう」
圭吾の声色には、表面的な社交辞令以上の、さりげない温かさがにじんでいた。
「ですが……少し、気持ちが前を向いているのも確かで。長年住んでいた場所でしたけど、新しい場所での暮らしも、悪くないかもしれないなって」
「ふむ……なるほど。そういう風に受け止められる佐倉さんは、本当に強くて、しなやかだ」
ふ、と目を細めて、圭吾は微笑んだ。
そして少し間を置いて、まるで話の流れで出たように、静かに切り出す。
「……実は、うちの取引先に、不動産に強い業者がいましてね。分譲も賃貸も幅広く扱っています。もし、よければご紹介しましょうか?」
「え……」
美咲はわずかに驚いたように瞬きした。
「もちろん、営業目的ではありません。ただ……少しでも、ご負担が減ればと思って」
その物腰はあくまで紳士的で、押しつけがましさはなかった。
「……ありがとうございます。お気持ちだけ、ありがたくいただきます」
ぴたりと角度を正した丁寧な会釈。
それを見て、圭吾は微笑んだ。
(やはり、美しい人だ……心の所作までも)
「お力になれることがあれば、いつでも」
そして、やや意図的に、彼はそのまま立ち去った。
ほんの少しだけ、彼女の余韻を引くように。
美咲は、エレベーターの鏡に映る自分の顔をちらりと見た。
特別、表情は変わっていない。けれど心のどこかに、さざ波のような感情が残っている。
(……丁寧な人、だな)
松田専務の声、微笑み、言葉の間。
どれも洗練されていて、過剰なものが一切ないのに、確かに“届く”。
(でも……どこか、絶妙に近い)
礼儀と好意の境目、その“ぎりぎり”を歩いているような。
「お力になれることがあれば、いつでも」
あの一言のあと、すぐに立ち去ったところまで含めて、
まるで余白の美学のように、こちらの想像を促してくる。
(ああいう人って……ズルい)
思わず、ため息がこぼれそうになり、美咲は急いで気持ちを切り替えた。
(違う、私は今、自分の暮らしのことを考えなくちゃいけない)
新しい住まい、これからの暮らし。
静かに、でも確かに、人生がまた動き出しているのだから。
その穏やかで低い声に、美咲はふと足を止めた。
ラウンジ前のガラス扉に立っていたのは、松田商事の専務──松田圭吾だった。
「松田専務。いらしていたんですね」
「はい。滝沢社長と少し、今後の業務連携について」
軽く笑ってから、彼はちらと視線を逸らし、何気ないように言葉を続ける。
「この間、少し耳にしたんです。お住まいをお引っ越しになるとか」
「え……あ、はい。突然、建物の売却が決まって。180日以内に退去することになりまして」
「ああ、それは……驚かれたでしょう」
圭吾の声色には、表面的な社交辞令以上の、さりげない温かさがにじんでいた。
「ですが……少し、気持ちが前を向いているのも確かで。長年住んでいた場所でしたけど、新しい場所での暮らしも、悪くないかもしれないなって」
「ふむ……なるほど。そういう風に受け止められる佐倉さんは、本当に強くて、しなやかだ」
ふ、と目を細めて、圭吾は微笑んだ。
そして少し間を置いて、まるで話の流れで出たように、静かに切り出す。
「……実は、うちの取引先に、不動産に強い業者がいましてね。分譲も賃貸も幅広く扱っています。もし、よければご紹介しましょうか?」
「え……」
美咲はわずかに驚いたように瞬きした。
「もちろん、営業目的ではありません。ただ……少しでも、ご負担が減ればと思って」
その物腰はあくまで紳士的で、押しつけがましさはなかった。
「……ありがとうございます。お気持ちだけ、ありがたくいただきます」
ぴたりと角度を正した丁寧な会釈。
それを見て、圭吾は微笑んだ。
(やはり、美しい人だ……心の所作までも)
「お力になれることがあれば、いつでも」
そして、やや意図的に、彼はそのまま立ち去った。
ほんの少しだけ、彼女の余韻を引くように。
美咲は、エレベーターの鏡に映る自分の顔をちらりと見た。
特別、表情は変わっていない。けれど心のどこかに、さざ波のような感情が残っている。
(……丁寧な人、だな)
松田専務の声、微笑み、言葉の間。
どれも洗練されていて、過剰なものが一切ないのに、確かに“届く”。
(でも……どこか、絶妙に近い)
礼儀と好意の境目、その“ぎりぎり”を歩いているような。
「お力になれることがあれば、いつでも」
あの一言のあと、すぐに立ち去ったところまで含めて、
まるで余白の美学のように、こちらの想像を促してくる。
(ああいう人って……ズルい)
思わず、ため息がこぼれそうになり、美咲は急いで気持ちを切り替えた。
(違う、私は今、自分の暮らしのことを考えなくちゃいけない)
新しい住まい、これからの暮らし。
静かに、でも確かに、人生がまた動き出しているのだから。