秘めた恋は、焔よりも深く。
あっという間に週末が来た。
待ち合わせの10分前。
約束の場所に着いた美咲は、控えめに深呼吸をしてから建物のエントランス前へと足を進めた。

(……やっぱり、綺麗な物件)

ベージュの外壁と、落ち着いたグレイッシュブラウンのタイル。周囲も静かで、第一印象は悪くない。そんなふうに外観を眺めていたときだった。

「佐倉さん」

呼びかけと同時に、すっと視界に入ってきた人影。

(……松田専務)

ジャケットにラフなシャツ、足元はレザースニーカー。
平日のスーツ姿とは違い、休日らしい装いなのに、どこか“隙のない洗練”を感じさせる。

「お待たせしました」

「いえ、私も今来たところです。わざわざありがとうございます」

「こちらこそ、週末のお時間をいただいて感謝しています。……とても似合ってますね、そのワンピース」

一歩引いた穏やかな口調に、思わず視線を伏せる美咲。

(……紳士的。でも、やっぱりどこか、距離が近い)

「ありがとうございます。今日は、よろしくお願いします」

微笑みを交わしながら、ふたりはエントランスをくぐっていく。
休日の静かな午後に、少しだけ、特別な空気が流れていた。

「このリビング、午前中は日当たりがいいですね。東向きの窓、好きなんです」

玄関からリビングに入ると、美咲は自然とカーテンを開けて、差し込む光に目を細めた。
広すぎず、けれど閉塞感はない。心地よい静けさが、どこか気に入っていた。

「こうして窓際に立つと、まるでここにもう住んでいるみたいに見える」
隣から、ふと落ち着いた声がかかる。

「……え?」

思わず振り返ると、松田が静かに微笑んでいた。
「リラックスしているように見えたから。今日この内覧を選んで良かった」

「ありがとうございます。でも……まだ、いろいろ見比べないとって思ってて」

「もちろん。それが自然です。でも、直感って案外、当たるものですよ」

そう言いながら、松田はキッチンの方へ歩き、美咲にも視線で促す。

「ここも見ておきましょうか。……佐倉さん、普段はどんなお料理を?」

その質問に、美咲はわずかに頬を染めながら、苦笑する。
「……あまり得意じゃないんです。手際も悪くて。外食やお惣菜に頼ることも多いです」

「そうなんですね。」松田専務が相づちを打った。

しばらく沈黙が続いた後、松田専務が再び口を開いた。
「でも、そんなところもまた、素敵だと思いますよ。自分のペースで、無理をしないところが。」

美咲は少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。
「ありがとうございます。でも、どこかで改善しないといけませんね。」

松田専務が少し首をかしげながら尋ねた。
「どうしてですか?」

美咲は少し考えた後、答えた。
「やっぱり、日々の生活にもっと余裕を持たせたいと思って。
外食やお惣菜ばかりでは、健康にも良くないですし、時間も無駄にしてしまう気がして。」

松田専務は軽く頷きながら、興味深そうに聞いた。
「なるほど、健康を意識するのは大切ですね。だが、忙しい中でどうやってその余裕を持つかが問題ですよね?」

美咲は少し頷き、視線を少し下に落としながら答えた。
「そうなんです。毎日のルーティンに追われて、つい簡単に済ませてしまうんですけど、もっと自分に優しくできたらなと思って。
例えば、ちゃんとした料理を作る時間を取ったり、家でゆっくり過ごす時間を確保したり…
それができたら、もっと心が落ち着くような気がするんです。」

松田専務はその言葉に軽く笑みを浮かべ、少し考えた後に言った。
「確かに、自分の時間を大切にすることは重要だ。それが心のゆとりにもつながりますから。
だが、忙しいとその時間を作るのが難しい。でも、少しずつでも変えていけるかもしれませんね。」

言葉の端々に、丁寧に包まれた好意が混じっているのが分かる。
だが、不思議と嫌悪感はなかった。ただ、胸の奥に、微かな“戸惑い”が波紋のように広がっていく。

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