秘めた恋は、焔よりも深く。
店内は、落ち着いた木のインテリアに包まれた、カフェレストラン。
窓際のテーブル席に通されると、ほどよい距離感を保ちながら、ふたりは向かい合って座った。

「今日は、突然お誘いしてしまって……失礼ではなかったですか?」
メニューを閉じた松田が、穏やかに尋ねる。

「いえ。まさか、こんなふうに物件を見せていただけるとは思っていなかったので……感謝しています」

「それならよかった」
短く頷くと、彼はワイングラスに注がれたミネラルウォーターを手に取った。

「佐倉さんが、住まいを変えようとされている理由……もし、聞いても構いませんか」

「理由……そうですね。きっかけは、建物のオーナーが変わることで、退去を迫られたからなんですけど……」

美咲は少し考えてから続けた。
「でも正直、そろそろ変化が欲しかったのかもしれません。……今の場所に引っ越ししてから、ずっと同じ場所にいたので」

「……長くひとつの場所にいるというのは、ある意味、安心でもあるし……同時に、足を止める理由にもなる」

松田の声は低く、静かに落ち着いていた。
「私も、かつて離婚したあと、ずいぶん長い間、
“何かを変える”ことが怖かった時期がありました。
何かを変えれば、また誰かを傷つけてしまうんじゃないかと」

「……」

「でも――結局、人は変わっていくものなんですよね。望んでも、望まなくても。
だからこそ、自分で選ぶ。動く。その感覚は、大切にしたいと……私は思っています」

グラスの水を一口飲みながら、彼は一瞬、遠くを見たような目をした。

(……この人、やっぱりただの“仕事ができる人”ではない)

「だから、佐倉さんが“自分で動こうとしている”こと、とても素敵だと思います」

その言葉が、まっすぐに胸に落ちた。

「……ありがとうございます」

美咲は、テーブルの上で自分の指先を見つめながら、ふと口元をほころばせた。
「なんだか……思っていた以上に、背中を押されている気がします」

「背中くらいなら、何度でも押しますよ」
冗談めかして言ったあとで、松田はふっと笑みを深めた。

「ただし、それ以上に近づくときは……ちゃんと、許可をいただいてからにします」

冗談なのか、本気なのか。
声はやわらかく、でもその目の奥に宿る静かな熱は――冗談だけではないことを、美咲に伝えていた。

テーブルに運ばれてきたコーヒーの香りが、ふたりの間にほのかな静けさを連れてきた。

ふと、松田専務がカップを手に取りながら、何かを思い出すように、視線を窓の向こうに向けた。
「……仕事以外で、こうして誰かと食事をご一緒するのは、実は、久しぶりなんです」

「そうなんですか?」

思わず返した美咲に、松田はやわらかく微笑んだ。

「前に、家庭を持っていた時期がありました。
今はもう離婚して、ずいぶん経ちますが……二人、子どもがいましてね」

「……」

「上の息子はもう二十六になります。
今は、ある事情があって距離を置いていますが……自分なりの人生を歩いています。
娘は高校三年生。音楽と華道が好きでね、いつも部屋からピアノの音が聞こえてくるんですよ」
その語り口には、どこか遠くを見つめるような懐かしさと、静かな誇りがあった。

「うまくいかなかった結婚ではあったけど……それでも、彼らに出会えたことだけは、悔いがありません」

松田はカップを置くと、目をそらすことなく、美咲に視線を向けた。
「過去は変えられないけど、人は、これからの生き方でそれを抱きしめることができる。
私はそう信じています」

美咲は、息を飲んだ。
それは、まるで自分の心の中の一番静かな場所に、そっと触れられたような言葉だった。

「……すてきですね」
そう返す声が、ほんの少し震えたのを自分でも感じながら、美咲は目の前のコーヒーにそっと口をつけた。

「私も……結婚していた時期があります」

自分でも思いがけないほど、素直にその言葉が口をついていた。
でも、不思議と、今は話してもいい気がした。

「義両親から、ずっと責められていました。『女としての役割を果たせていない』って。……料理が下手なことも、家事が苦手なことも、いちいち言われて」

笑いながら話そうとしたけれど、うまく笑えなかった。
それでも、美咲はゆっくりと続けた。
「当時は、私が全部悪いのかなって……。何もかも、自分が足りないからだって思い込んでました。
気づいた時には、自分が誰だったのか、わからなくなっていたんです」

「……」

松田のまなざしには、ただの同情ではない、深い理解と、敬意があった。

「でも今は……少しずつ、自分を取り戻せてる気がします。
だから、引っ越しのことも含めて、環境を変えてみようかなって、前向きに考えられていて……」

そこまで話してから、美咲は、ふっと息を吐いた。
「ごめんなさい。こんな話を……初対面みたいなものなのに」

松田は、わずかに口元を緩めた。
「いえ。話してくださって、嬉しいです。過去の痛みを語れる人は、それだけで強さを持っていると思います」

「……強くなんて、ないですよ」

「いえ、あなたは強い。静かに、でも確かに」

その声は穏やかだったが、不思議な説得力を持っていた。
まるで、少しだけ未来に向かって背中を押されるような.....そんな午後だった。
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