秘めた恋は、焔よりも深く。
内覧を終え、マンションのエントランスを後にした美咲は、近くの通りをなんとなく歩いていた。

(住む場所って……理屈じゃないのよね。今日みたいに、“空気が合う”って思えるかどうか)

街歩きの締めくくりに、美咲は小さなラーメン屋の暖簾をくぐった。

(こんな時間に一人でラーメンなんて、久しぶりかも)

カウンターの端に腰を下ろし、水をひと口。
醤油の香ばしい匂いが、鼻をくすぐる。

「お待たせしました、醤油ラーメンひとつ!」

店員の声が響いたちょうどそのとき、
「すみません、ひとり」と、低く落ち着いた男性の声が聞こえた。

振り向かなくても、すぐにわかった。
その声を、美咲は知っている。

(……まさか)

驚きと戸惑いの混じった気配で視線を向けると、
そこには、ジーンズにシンプルなセーター姿の龍之介が立っていた。
普段のスーツ姿とはまったく違う、少し柔らかい印象。
彼も、美咲に気づいて足を止める。

「佐倉さん……?」

「……黒瀬さん」

ふたりの視線が交差する。
ほんの数秒の静寂ののち、龍之介が口角をわずかに上げた。

「ここで会うとは思わなかった。……偶然、ですね」

「ほんとに」

美咲は、少しだけ笑った。
気まずさはない。けれど、心のどこかが、ほんの少しだけ高鳴っていた。

「隣、空いてます?」

「ええ……どうぞ」

龍之介が静かに腰を下ろす。
カウンター越しに差し出されたメニューを受け取りながら、ふと視線を向けた。

「おひとりで?」

「はい。……ちょっと歩いていたら、ラーメンの匂いにつられて」

「そうか。俺も……なんとなく、食べたくなって」

スーツではなく、ラフな服装の彼は、どこか年下のようにすら見えた。
でも、その佇まいにはやはり、大人の余裕が滲んでいる。

ふたりの間に、少しずつ、あたたかい空気が流れ始める。

「ここ、炒飯と餃子も美味しそう」

ラーメンに箸をつけながら、美咲がふと呟いた。
龍之介が顔を上げる。

「うまいぞ」
「うん。前に来たとき、餃子がパリッとしてて。……よかったら、シェアするか?」

言ったあとで、少しだけ気恥ずかしさが龍之介の頬ににじんだ。
けれど、美咲はいつもの落ち着いた口調で、静かに笑う。

「いいですね。頼みましょう」

ほどなくして、湯気の立つ餃子の皿が運ばれてくる。
箸でそっと一つ持ち上げ、口に運ぶと、カリッとした歯ざわりと肉汁の旨みが広がる。

「……美味しい」

ぽつりとつぶやいた美咲の声が、どこか嬉しそうで、
龍之介は思わず微笑んだ。

「だろう。ここのは、たれをつけなくても美味しい」

「ほんとに。……黒瀬さん、けっこうグルメなんですね」

「そんなことないですけど……美味しいもの、好きなんだ」

そう話しながら、ふたりは自然と箸を伸ばし合う。
シェアしたはずの餃子は、気づけば一瞬でなくなっていた。

「……そういえば、どうしてここに来たんだ?

「このあたりに来たのは、その、内覧の帰りなんです」

餃子を一つ口に運びながら、美咲が言う。
龍之介が箸を止め、少しだけ眉を動かした。

「内覧?」

「ええ。この前にちょっと気になっていた低層階のマンションがあって。
雰囲気は悪くなかったんですけど……なんとなく、ピンと来なかったんです。
上手く説明できないんですけど、“ここだ”って感覚がなくて」

龍之介は餃子をゆっくりと噛みながら、言葉を選ぶように応じた。

「……ここら辺、静かだし、暮らしやすいと思う。駅からの距離も丁度いいし」

「そうなんですね。あ……黒瀬さんは、この辺りにお住まいなんですよね?」

「ああ。すぐそこ。社長と同じマンション。便利だから」

「そうでしたか……」

美咲の瞳に、ふとした驚きが浮かぶ。

もしかして、今日見に行った物件は、そのすぐ近くだったのでは…そんな予感が胸をかすめた。

「悪くないエリアだと思う。ま、引っ越し先って、理屈より“なんとなく”で選ぶ方が案外、後悔しないかもな」

「“なんとなく”ですか?」

「うん。居心地がいいとか、空気が好きとか。そっちの方が続く」

「……なんだか、黒瀬さんらしいですね」

美咲が、柔らかく微笑んだ。

その笑顔に、龍之介は一瞬だけ目を細め、再び餃子に箸を伸ばした。

「餃子、もう一皿頼む?」

「……はい。お願いします」

美咲が楽しげに言った。
「それにしても、黒瀬さんと偶然お会いすることが多いですね。」

龍之介は笑いながら、軽く肩をすくめて言った。
「だよな、こうなると必然って言っていいのかもしれないな。」

美咲は目を細め、少し考えた後に微笑んだ。
「本当に、これだけ何度も会うと、偶然じゃなくなってきますね。」

龍之介はしばらく黙って美咲を見つめ、その言葉に何かを感じ取ったような表情を浮かべた。
それからゆっくりと話を続ける。

「そうだな。偶然も積み重なれば、運命みたいなものだな。」

小さな会話の積み重ねが、じわりと距離を近づけていく。
そんな時間が、二人の間に、確かに流れていた。

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