秘めた恋は、焔よりも深く。
静かな沈黙が落ちた。
美咲はグラスの水面を見つめたまま、心の奥で何度も言葉を反芻し、
やがて、決意を固めたように顔を上げる。

「……そこまでおっしゃるのなら、わかりました」
声は澄んでいて、揺れがなかった。

「もし、私の心が黒瀬さんの想いに応えられなければ、その時は、すっぱりと思いを断ち切ってください。
そして……今の関係、つまり仕事でご一緒させていただいている、その形を継続させてください」

凛とした響きは、一見突き放すようでありながら、美咲なりの誠実さでもあった。

龍之介は一瞬だけ目を細め、それからゆっくりとうなずいた。
「……ああ、約束しよう」
その低い声には、彼女の矜持を尊重しながらも、なお揺るぎない確信が込められていた。

「黒瀬様、ようこそお越しくださいました」
慣れた調子の挨拶に、美咲は少し驚く。

龍之介はすっと背筋を伸ばし、穏やかに笑った。
「坂東さん、今日もお世話になります」

そして、ごく自然に続ける。
「彼女は佐倉美咲といって、俺の恋人です」

「……っ!」
不意を突かれた言葉に、美咲は思わずむせ返りそうになる。
グラスの水で喉を潤し、なんとか呼吸を整えた。

マネージャーの坂東は少しも動じず、にこやかに会釈する。
「そうでしたか。佐倉様、お料理はいかがでしょうか?」

「……大変美味しいです。ありがとうございます」
精一杯の笑みを返す美咲。
胸の奥では混乱と鼓動がせめぎ合っているのに、口元だけは落ち着きを装っていた。

その横で龍之介は、満足げに目を細めて彼女を見つめていた。
まるで「恋人」と呼ぶのが当然であるかのように。

「黒瀬様、特選カルビのご用意が整いました」

慣れた調子でマネージャーの坂東が声をかけると、すぐにスタッフが手際よく肉を運んできた。美咲の目の前に置かれた皿には、つややかな霜降りが並び、照明に照らされて宝石のように輝いている。

「ここの肉は絶品だ。真樹とも何度も来ているんだが……恋人と味わうのは格別だな」

龍之介がそう言って、美咲を正面から見据える。平然と告げられた「恋人」という響きに、美咲は胸の奥がざわめいた。
むせ返ったさっきの失態を取り繕うように、笑顔をつくりながら箸を伸ばす。

「……本当に、とても美味しいです。油が甘いのに、全然しつこくなくて」

「そうだろう。美咲、これは俺が焼こう。熱いうちに食べてくれ」

龍之介は慣れた手つきでトングを操り、網の上に肉を並べた。ジュッと弾ける音と、芳ばしい香りが漂う。
煙が立ちのぼるその合間から、彼の横顔が浮かび上がる。
仕事中の厳しい表情ではなく、どこか楽しそうで、どこまでも余裕を纏った男の顔。

箸を置いた龍之介が、ふと真剣な眼差しで美咲を見た。
グラスの赤ワインを揺らしながら、低く響く声で問いかける。
「ところで、明日の予定は何かあるか?」

「えっ……あ、特には……」

思わず視線を泳がせる美咲。
彼はその様子を見て、満足そうに口元をゆるめた。

「ないんだな。……よかった」

ほんの一拍置いて、身を乗り出す。
熱を帯びた瞳に射抜かれ、美咲の胸がどくんと鳴った。

「どうしても嫌だというなら無理やりとは言わない。だが…明日、君をデートに誘いたい」

テーブルを挟んだまま、美咲の手を再び取る。
指先から伝わる温もりに、抗う力がふっと抜けていく。

「俺と一緒に過ごす時間を、もっと重ねたい。……いいだろう?」

「キャンプまで、もう時間もない。だがそれ以上に、俺は、もっと美咲のことが知りたい」

重ねられた指先に力がこもる。
ただの恋人らしい誘いではない。
彼の言葉の奥にあるのは、独占欲と執着、そして深く静かな熱。

「俺のそばで見せる表情も、仕事中には見せない顔も。……その全部を、俺は知りたいんだ」

視線を絡め取られた美咲は、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
明日一日を彼と過ごす…それは抗う理由のない甘美な誘惑。
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