すき、という名前の花
どれくらい時間が経っただろう。
気づけば、あれほど激しかった雨音が、だんだんと静かになっていた。

Aはそっと顔を上げると、頭上の屋根の外に手のひらを伸ばしてみる。
ぽつ、ぽつ、と、空から落ちてきたのは、さっきよりずっとやわらかな水の粒だった。

「……もうすぐ止むのかな」

そんな呟きを胸の中でそっとこぼす。
置きっぱなしにしていた鞄のことを思い出し、Aは立ち上がろうとした。

そのときだった。

扉の横に、小さな“何か”がぶらさがっているのが目に入った。

一枚の、古びた木の板。
まるで何十年も雨風に打たれ続けたように、黒ずんでいて、ひび割れていて。
でも、その傷んだ質感が、なぜかAの心をひっかけた。

近づいて、そっと顔を寄せる。
すると——汚れの奥に、かすかに“線”のような模様が浮かび上がっていた。

(……これ、絵文字じゃない)

Aの胸が、なぜかぎゅっと音を立てる。
いつも見慣れている記号じゃない。
もっと古くて、意味もわからないのに、不思議と懐かしい——そんな“しるし”。

「……私立図……館?」

ぽつりと呟いた言葉の意味は、Aにはわからなかった。
でもその線のかたちは、知らないはずなのに、どこかで会ったことがあるような、
温かくて、切なくて、胸の奥をくすぐるような、不思議な感覚を残していった。

Aは自然と視線を、扉の取っ手へと移していた。
そこには、太くて錆びついた鎖が、何重にも巻かれている。

(……ここ、ほんとうに入っちゃいけない場所だったよね)

胸の奥で、小さな警告が響いた。
でも、それ以上に強く揺さぶられる“何か”があった。

その“なにか”は、言葉にできない。
けれど確かに、Aの背中をそっと押していた。
——まるで、呼ばれているみたいに。

「……っ」

Aは、そっと手を伸ばした。
指先が、冷たく濡れた鎖に触れた瞬間。

——ガラリッ。

乾いた鉄の音が、静まりかけた空気を鋭く裂いた。

鎖は、まるで自らの意思でほどけたかのように地面へ落ちていく。
Aは驚いて肩を跳ねさせ、あわててあたりを見渡した。

……誰も、いない。
聞こえるのは、雨の名残と、自分の心臓の音だけ。

(ダメ、って思ってるのに……)

それでもAは、取っ手にそっと手を添える。

(どうしてだろう。……でも、行かなきゃって、思うの)

心の奥底、ずっと眠っていた何かが、静かに目を覚まそうとしていた。

そして——Aは、そっとその扉を、開けた。
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