すき、という名前の花
Aが室内に一歩足を踏み入れた瞬間、鼻先に初めて嗅ぐ匂いが流れ込んできた。
それは、絵文字だけが支配する無機質な世界から来たAにとって、あまりにも異様なものだった。

無臭の空気に慣れきった鼻が、じっとりと紙に染みついた独特の匂いに包まれる。
それは、この空間に“なにかが記されている”証しだった。

壁ぎわにある小さなスイッチを見つけ、指でそっと押してみる。
だが、反応はどこにもない。

Aは一度足元を確かめ、慎重に靴を脱いだ。
手の中のスマートフォンの小さな光だけが頼りだ。

けれど、その灯りでは、この広い空間の全貌は到底掴めそうにない。
ただ、目の前にそびえ立つ巨大な棚の影が、ぼんやりと浮かび上がるだけだった。

ライトの向きを変えれば、似たような棚が何本も闇の中に連なり、浮かんでは消えていく。
まるで、深く眠る森の樹々が静かに息を潜めているかのように。

Aは息を飲み、震える心を押さえながら、その場に立ち尽くした。
初めて触れる世界の重みが、胸の奥で小さな波紋のように広がっていく。

しばらく忘れていた呼吸を、ゆっくりと取り戻すと、Aは一歩、また一歩と静かに歩みを進めた。

ひとつの棚に近づく。
その高さはおそらく四メートルはありそうで、五段に仕切られた中には、無数の紙の束がずらりと並んでいた。
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