すき、という名前の花
Aは、次から次へとスマートフォンを操作して、いくつもの絵文字を彼女に見せた。
「😃」「🥶」「😭」「😯」
いつも学校で学んでいる、感情を示す記号たち。
けれど——彼女には、何一つ伝わらなかった。

ふたりのあいだに、静かな沈黙が流れる。
その空気をやわらげるように、彼女はそっとバッグの中から、ノートとペンを取り出した。

さらさらと走らせた文字を、Aに差し出す。

——「なまえは?」

その文字を見つめた瞬間、Aの呼吸がふと止まる。
それは、自分の世界には存在しない“記号”だった。
だけど……なぜだろう。
初めて見るはずなのに、心のどこかが懐かしく揺れた。

Aは、震える指先でその線をゆっくりとなぞる。
理解はできなくても、その言葉の奥にある想いだけは、伝わってくる気がした。

彼女はもう一度、ノートにペンを走らせる。

——「あなたの なまえは?」

Aはスマートフォンを取り出し、「🙇‍♀️」の絵文字を彼女に見せた。
けれど、それでは答えにはなっていないと、彼女は気づいたのだろう。

彼女は、自分の胸をぽんぽんと叩いた。
そして、にっこりと笑って、Aのほうを見つめた。

Aも自分の胸をそっと指差す。
それを見た彼女は、もう一度、深く頷いた。

Aは直感した。
この人は——自分の中に、“A”だけの何かを見ようとしてくれている。

それは、Aが生きてきた世界にはなかった感覚だった。
人に“違い”なんてなくて、個性なんて認められない。
名前なんて、存在しない。

だからこそ——彼女の問いかけが、心の奥を強く揺らした。

Aは、画面を見つめたまま、指をさまよわせる。
感情を示す絵文字が、ずらりと並ぶ。
でも、そのどれもが、今のAの気持ちを表すには足りなかった。

そんなとき——ふと視界に入った、左下の小さなボタン。

「🔤」

Aの世界では“使わない”場所だった。
けれど、そのときのAは、まるで導かれるように、そのボタンをタップした。

すると画面が切り替わり、そこには——白い文字たちが並んでいた。

A B C D E F G…

意味なんて、わからない。
でも、その並んだ記号のなかで——一番左にあった「A」が、Aの心を揺らした。

どうしてかは、わからない。
でも……これは、きっと“自分”だ。
そう感じた。

Aは、その「A」をそっと押した。
画面に浮かぶ、たった一文字のアルファベット。

——A。

知らないはずの“名前”が、なぜかAの胸の奥に、じんわりと染み込んでくる。

彼女はそれを見て、優しく微笑んだ。
そして、ぽつりと、言った。

「よろしくね。Aくん」

——“Aくん”。

その響きが、なんだかとても特別で。
初めて“自分”というものが、この世界に存在しているような気がした。

すると今度は、彼女がノートに文字を書いた。
そこには、はっきりとこう書かれていた。

——「B」

「これが、わたしのなまえ」

そう、瞳が語っていた。

名前。
それは、どんな時代でも、どんな世界でも、
人と人をつなぐ“はじまりのことば”。

Aには、まだその意味をすべて理解することはできなかった。
けれど——“何かが始まった”ことだけは、はっきりと、感じていた。

外ではまだ雨が降っていたけれど、
ふたりのあいだには、確かに小さな灯がともっていた。

それは、やがて、心を照らす大きな光になる。
そんな予感だけが、静かに胸をあたためていた。
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