氷の『悪役令嬢』は、平和主義者の転生モブ男子を逃さない


「わたくしを呼び出したのは、貴方かしら。ジル・マークス?」

 声をかけると、裏庭の先客ことジル・マークスは、あからさまに驚いた顔でセリーナを見た。
 王立リーンデルク魔術学園の、校舎裏に設えられた薬草園。普段は殆ど人気がないここに来るように──と、魔術による封がなされた手紙で呼び出され、セリーナはそれに応じる形でここに来たのだ。驚かれる理由はないはずだが、と微かに眉を寄せると、ジルは慌てたように軽く頷く。

「そうです。そう、ですけど……あの、えーと、お供の方とかは?」
「? ひとりだけど……そういうものではないの?」

 セリーナは公爵令嬢だ。主に貴族が学ぶこの学園では、授業時間外に於いては、身の回りの世話をするための付き人を伴うことが許可されている。ジルが言っている『お供』とはそのことだろう。
 けれども──それが、今日この場に相応しくないことぐらいは、学生生活からはどうしても浮き上がった存在で居続けたセリーナにもわかる。

 明日、セリーナは、この学園を卒業する。

 セリーナの同級生であるジルも立場は同じで、かつ、明日は卒業式の後にダンスパーティーが予定されており、個人的な時間をとる余地がない。学園内で内密に話をしようとするなら、今日が最後の機会なのだ。セリーナの返しに、ジルは理解したようなしていないような顔で「あー……? まあ、好都合ではあるか……」と小さく呟いて、改めてセリーナに向き直る。

「えーとですね、お時間とらせても申し訳ないので、手短にいきますね」
「はい」

 ジルは辺りを見渡して、人気がないことを再度確認したうえで、小さく潜めた声でこう言った。


「セリーナ・ルーベルデン公爵令嬢。あなた、殿下に陥れられそうになってます」


 殿下。
 というのは、セリーナの婚約者である王太子──エドウィン・リーシャスのことだろう。セリーナが瞠目する前で、ごく淡々とジルは続ける。

「昨日、ここで殿下とその取り巻きが密会してるのを、偶然聞いてしまいまして。殿下は明日、ダンスパーティーの会場にて、貴方に『婚約破棄』を通告するつもりです。理由はまあ……色々とでっちあげているようですが」
「わたくしが越権行為を行なっているとか、リリー子爵令嬢を害しているとか?」
「あー……まあ、そんなところですかね」

 なるほど。セリーナは思考を瞬時に切り替え、軽く額を抑えて嘆息した。なるほど。

「……愚かな人」

 エドウィンが、リリーに熱を上げているのは知っていた。セリーナに公務を押し付けておきながら、王宮での存在感を増していくセリーナに、劣等感を抱いていることも。
 だからといって、というべきか、だからこそ、と言うべきか。エドウィンの言い分に理がないことなど、誰の目にも明白だ。

「わたくしがやっていたのは、あくまで殿下の『代行』としての業務。宮廷の承認を得たものです。それに、わたくしは愛人にまでとやかく言うような女ではありませんわ。リリー嬢との関係を続けたいのなら、形だけどこかの夫人に収め、愛妾として囲えば良かったでしょう。そのほうが、彼女のためでもあるというのに……それでもなお殿下は、わたくしとは結婚したくないのですね」
「……あー……信じられません?」
「いえ」

 分のない賭けだということに気づかないほど愚かだったのか、あるいは──セリーナは、明日には『元』がつくだろう婚約者の、美しい、けれどもどこか弱気にも見えた笑顔を思い出した。

「……元々、好かれているとは思っておりませんでした。それを問題と見做さなかった、わたくし自身の問題でしょう。……とはいえ」

 あるいは──と、考えないことはないけれど、彼の内心を慮ってやれるタイミングは、もはや過ぎてしまっていた。
 そもそも、王妃とは、愛によってなるものではない、『職業』と言った方が正しい立場だ。その上、たいして旨味のある仕事でもない。リリーにとっては苦労が増すばかりだろうに、どうして茨の道を行こうというのか。まさかそれが『真実の愛』だとでも? セリーナは内心で深々とため息を吐きながら、今後の段取りのために思考を巡らせる。

「彼がそのように判断する──私情を最優先する人物であるとわかった今、彼を王位につけるわけには参りません」
「まあ、そうなりますよね」
「知らせてくれて助かりました。あとは、こちらでよしなにしておきますわ」
「あの。……一応、どうするつもりか聞いてもいいですか」

 尋ねられ、セリーナは軽く眉を上げた。
 詳細を聞くことは、巻き込まれるということだ。伝えるだけ伝えて逃げるほうが懸命である、と、わかっていない男とは思わなかったが。セリーナの沈黙をどう受け取ったのか、ジルが慌てたように付け加える。

「いや、俺のようなものに話せないならそれはそれで」
「……いえ、構いませんわ」
「いいんですか? ……というか、話もすぐに信じてくれましたけど、俺が嘘をついているとは思わない?」
「平穏を愛する貴方が、なぜ、そのような嘘を?」
「……!?」

 セリーナが小首を傾げると、ジルは、明らかに警戒する素振りで眉根を寄せた。──気づいていないと思ったのだろうか?
 ジルは伯爵家の次男で、学業・魔術・武芸すべて、取り立てて目立つところのない生徒である。深緑の髪は癖もなくさらさらで、同色の瞳は凛々しく切れ長。上背もあり、十分に整っていると言っていい容姿をしているのに、『目立たない』のだ。そうであろうと意図しなければできない芸当である。
 そしてセリーナは、そんな彼が、学級内のトラブルを未然に防ぐため──例えば、それこそ、リリーの件がそうだ。彼は身分が低く魔術以外の成績がからきしのリリーが周りから浮かないよう、単純で気の良い侯爵令嬢をリリーの友人として宛てがい、その交友関係をサポートしていた──裏から手を回していたことを知っていた。

「わたくしは、学園の運営と殿下の公務のフォローとで、学級内の人間関係にまで手が回っておりませんでした。貴方の目配りには感謝しております」
「……まあ、なんだ、貴方の言うとおり、俺は平穏が好きなんですよ。特別なことをしたわけじゃない」
「そういうことにしておきますわ。……そんな貴方ですもの。王家と我が公爵家の対立など、避けたいに決まっているでしょう?」

 ルーベルデン公爵家は、遠く王家の血も流れ、広く肥沃な領土を持つ、国内で並ぶものない勢力を誇る家である(どうやら、最後まで、エドヴィンにはその重要性が理解してもらえなかったようなのだが)。もし本当にエドウィンがセリーナとの婚約破棄など言い出せば、ルーベルデン公爵家は完全に面子を潰されたことになり──その後の展開によっては、武力衝突さえありうるだろう。子どもの色恋ごときでだ。セリーナは溜息をつき、この後の展望、『どうするつもり』かをジルに語った。

「幸い、先に手を打てることになりましたから。父上にご報告し、エドウィン様には『ご病気』になっていただくことになると思いますわ。気鬱の病ですわね。しばらくしたら、回復の見込みがないということで、王太子を第二王子殿下に交代頂き……エドウィン様をどうなさるかは、陛下のご判断次第でしょうが……療養先にリリー嬢を連れていくことも、不可能ではないでしょうね。我が家とは、第二王子殿下にわたくしの妹が嫁ぐ……という形で、手打ちとなるかと思います」
「……貴方ではなく?」
「第二王子殿下に? ありえませんわね。それでは、わたくしの──公爵家のほうが格が上のようになってしまいますわ」

 エドウィンがセリーナに相応しくなかった──セリーナの立場が優先されたような印象は、いくら事実であれ、王家としては避けたいだろう。
 では、セリーナはどうなるのか?

「わたくしは、ほとぼりが冷めた頃に、国外にでもいい話があれば……あるいは、神殿に仕えてもいいかもしれませんわね」

 セリーナは、正式に婚約が決まる十五より前からずっと、エドウィンの婚約者と目されてきた。婚約期間が長すぎたのだ。いまさら他の誰かに、という話になって、手を挙げる家があるとは考えにくい。──それに、と、セリーナは我が身を顧みた。
 セリーナに明らかな落ち度がなくとも、エドウィンがリリーを選んだのは事実である。それはつまり、セリーナに魅力がないということだろう。王太子妃に相応しいだけの外見は維持してきたつもりだったし、必要な教養は全て身につけ、王太子の代行をこなせる程度の能力もあるが、それらが人間的魅力と直結しないことはセリーナにもわかる。

『──お前といると、たまに、疲れるよ。いつでも品定めされているような気持ちになる』

 思えばあれが、エドウィンがセリーナに溢した、唯一の本心だったのだろう。セリーナは今更反省した。プレッシャーをかけているつもりはなかったが、エドウィンにとってはおそらく、セリーナの存在そのものがプレッシャーだったのだ。
 セリーナは、誰かと結婚することそのものに、きっと向いていないのだろう。『王妃』としては完璧であろうとしたし、内向きの部分は愛妾がカバーしてくれると思っていたのだが──男性というのはおそらくセリーナが思うよりロマンチストで、きっと、業務上のパートナーからも、愛や癒しのようなものが欲しかったのだ。
 だとするならば、誰かを愛したり慈しんだりすることが向いていないセリーナは、結婚そのものをしないほうがいい。神殿に入り、幸にしてそこそこ豊富な魔力で神官として国の役に立つほうがいいのだろう。そのようなことを口にすると、ジルは微妙な顔をした。

「……あんたは、そうしたいのか?」
「え?」
「そういう話なのか……? お仕事もの……? 確かに、セリーナほどの力があれば、神官としてチート的な出世を果たしたり、バトル展開で俺ツエーしたり、予期せぬ世界の危機を救ったり、そういう展開もありうるか……?」
「はい?」
「いやしかし、女性神官は男性と違って独身を通すのが常で……悪役令嬢もので恋愛要素がないってことはないだろ……?」
「あの……?」

 かと思えば一人で何やら呟き始めるジルに、セリーナはきょとんと目を瞬く。いきなり『あんた』『セリーナ』と呼ばれた衝撃と耳慣れない単語の羅列とで、俄かに内容が飲み込めない。ジルはしばらく考え込むように小さく唸り、それから、意を決したようにセリーナを見た。

「あんたが、それでいいならいいんだが、……でももし、それが、家とか国とか世界とか、そういうものを優先して考えた結果なら、考え直したほうがいい」
「……はあ……?」

 思わず令嬢に相応しくない声が出たのは、あまりに理解が難しいことを言われたからだった。家とか国とか世界とかを優先して?
 ──そういうものを第一とせず、一体、何を基準に考えろと言うのだ? セリーナの疑問に答えるように、ジルは、強い確信を込めた声で、まるで託宣みたいに厳かに言った。


「主役は、あんただ」


 深い緑色の瞳に、セリーナの姿だけが映り込んでいる。
 それがまるで、年相応の少女の、どこか狼狽えたような顔をしているから驚いた。──王家に連なるものとして、己の感情を詳らかにしないことが、体に染み付いているはずなのに。

「だからあんたは、国のことやら家のことやらなんて考えず、やりたいようにやっていい。……いや、なんだ、それが、ほんとうにあんたの『やりたいこと』ならそれでいい、んだが、……」

 と、途中から急速に勢いをなくしたジルが、最後にはもごもごと口を閉ざす。そうして、バツが悪そうな顔を片手で隠して、「悪かった、なんでもない、それじゃ」とこれまたもごもごと言い──話は終わったとばかり、くるりと踵を返して立ち去っていった。

 そうして一人残されたセリーナは──ようやっとのことで、こう思った。



 ──なんだか、思っていたのと違う話でしたわ、と。



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