氷の『悪役令嬢』は、平和主義者の転生モブ男子を逃さない

 あーーーーーー、と、ジルは宿舎の部屋に転がって頭を抱えた。やってしまった。思い出したくない黒歴史がまたひとつ増えた。
 
 ジル・マークス。──お察しのとおり、転生者である。

 転生前の最後の記憶は、何の変哲もない一人暮らしの1DKだ。両親が早逝し、祖父母に育てられ、大学を出てシステムエンジニアになった俺は、ごく普通に出勤の支度をしていたはずだった。
 ……そこからの記憶がない、ということは、きっと俺は、日頃の不摂生が祟って倒れたのだろう。享年三十。早すぎる死ではあるが、さほど未練も感じないのは、オタクでコミュ障だった俺に、未練を持つほどの存在がいなかったからだった。

 さて、そんな俺なのだが、生まれたときから前世の記憶があった──というわけではなかった。
 俺が前世を思い出したのは、十五になり、王立リーンデルク魔術学園に入学した日のことだ。


 その日、俺は、運命に出会った。


 セリーナ・ルーベルデン公爵令嬢。その美しい銀髪、澄んだ氷のような薄い水色の瞳、冷たくも凛とした顔立ちを見た瞬間──俺の脳裏を、存在しない数々の記憶が駆け巡った。ハマっていたソーシャルゲームの推しキャラ、好きだったラノベのツンデレヒロイン、好んで見ていたVチューバー……数多の『銀髪美少女』が、こちらを見て微笑んでいる。

 そして、俺は思い出したのだ。──俺が、銀髪ロングの美少女に目がない、限界オタクだったということを。

 そして同時に、急遽インストールされたオタク脳が、己が現在置かれている情報を、自動的に解析した。やたらキラキラした外観と制服の魔術学園。十分に文明的でありながら、都合のいい『魔術』と『貴族階級』が存在する世界観。冷たい美貌の──王太子の婚約者である少女。頭の軽そうなイケメンの王太子。身分の低い、目立つ容姿をした可愛らしい少女。

(これは──これは、いわゆる『悪役令嬢モノ』の世界なんじゃないか……!?)

 じゃないか、と、あくまで推測だったのは、俺がこの世界について全く思い当たるところがないからだった。世界観もキャラクター名も、ひとつもピンとくるものがない。そもそも俺は男性向けコンテンツしか消費していないオタクだったからそれもやむなしだろう──が、前世のオタク知識が、『実際に悪役令嬢が出てくる乙女ゲーというのはほぼ存在せず、悪役令嬢とは悪役令嬢のための設定である』ことだけは教えてくれた。
 もしそうだとするなら、この世界のヒロインはおそらくセリーナだ。俺は──高すぎず低すぎずの身分と、改めて見れば整った容姿を鑑みるに、おそらく『正ヒロイン』に籠絡されるモブキャラの一人といったところだろうか?

(もし、そうだとしたら──この先、もしや『ざまぁ』展開が発生してしまう……!?)

 それはマズい。悪役令嬢モノの『ざまぁ』はかなりエグい──公開処刑(物理的な意味でも立場的な意味でも)やら一族郎党路頭に迷うやら──ものが多かったような気がするし(勿論、作品によるところも大きいが)、自分がそんな目に合うのは勿論ごめんだ。というか。


 そもそもの大問題として──俺は、『ざまぁ』が大の苦手なオタクなのである。


 これはもう単純に好みの問題で、俺はとにかく、それがたとえ愚かな悪役であっても、誰かがひどい目にあっているのを見るのが嫌なのだった。
 そもそも、自分自身、若いときの黒歴史のひとつやふたつやみっつあるわけで(コミュ障オタクだったので恋愛に関するものはひとつもないが、それは俺がモテなかったがゆえの幸運というものであって、これで告白なんぞされるようなことがあればそちら方面でだって死ぬほど黒歴史を作っていただろう)、せいぜい高校生ぐらいの男女のイキった言動が国家レベルの問題になるとか怖すぎる……という感想が先に来てしまう(親の教育が悪い、とかの方面に波及していくのも、親側の心労を考えて辛くなってしまう)。なんとも打たれ弱いオタクである。大丈夫か俺、『悪役令嬢モノ』世界でこの先生きのこれるのか俺?

 否。
 生き残らなければならないのだ。

 たとえ前世を思い出したところで、前世は前世、十五年生きてきた『ジル・マークス』は『ジル・マークス』だ。俺は俺として、この世界で生きていかなければならない。ならばどうするか。俺はない頭を必死で捻り、とりあえず、三つの行動指針を立てることにした。

 ひとつ。巻き込まれて『ざまぁ』されるのを避けるため、『正ヒロイン』には近づかないこと。
 ふたつ。なるべく『ざまぁ』が少なくなるように、『正ヒロイン』や『王太子』サイドに、罪を犯させないようにすること。
 そしてみっつ。


(なにより、一番大切なのは──……)


 俺は、セリーナの横顔を見た。
 ごく自然体でありながらぴんと伸びた背筋、美しく梳られきらきらと光を放つようですらある銀髪。少しの隙もない完璧な美貌に、内面の気高さが滲み出ている。理想が画面から飛び出してきたかのような姿を、遠くから見るだけで気絶しそうだ。近づくことなんて出来るはずがない。
 きっと誰かと幸せになる、この物語のヒロイン。
 その姿を、こうして遠くから眺めることが出来るだけで、この世界に生まれてきた意味がある。俺はしみじみとそう思い、こっそりと彼女を拝んでおいた。




 ……ともあれ、『原作』を知らない上、モブに毛が生えたようなキャラクターであろう身の上では、できることにも限界がある。
 俺はそれから三年間の学校生活を、そのふわっとした指針に従って、波風を極力立てず、また自身が目立たぬようにと心がけて過ごした。『正ヒロイン』たるリリーに目をつけられ、物語の強制力みたいなものに巻き込まれるのが嫌だったからだ。同じようにセリーナからも距離を取ったのはまあ、同じような理由……よりは、恐れ多くて推しに近づけない、という思いの方が強かったかもしれない。
 強い光は、遠くから眺めるぐらいがちょうどいい。ましてやお近づきになろうだなんて思えるわけがない。俺の前世は彼女いない歴イコール年齢の限界オタク、外見がイケメンになっていようと中身の残念さに変わりはないのだ。俺はただセリーナが学園の頂点に君臨し下々に笑顔を向けているのを、下々の一部として享受できているだけで十分だった。今日も俺の推しが強く美しい。
 そうして、自分自身はリリーたちに接触しないように心がけつつ、リリーがセリーナの信奉者たちに迫害されそうになれば、気のいい令嬢をそれとなくリリーの友人にして防がせた。エドウィンの公務放棄には『学業優先』の印象がつくようにしたし、エドウィンが明らかにリリーに本気でも、『公私のパートナーは別』と、エドウィンとセリーナ双方の名誉へのダメージが最小限になるようにそれとなく世論を調整し、また、リリーの存在が学園外に知られないよう骨を折ったりもした。
 そのおかげで、なのかどうか。学園生活は大きなトラブルもなく、エドウィンとセリーナの間も、良くも悪くも何もないままに、三年間はつつがなく過ぎた。


 ──過ぎたはずだった。だから。


「……セリーナに、婚約破棄を通達する」


 休息の場として使用している裏庭にて、エドウィンの声が聞こえてきたとき、俺は心底驚愕した。
 そんなまさか。いくらなんでも。──これが、『物語の強制力』であるとでもいうのか!? 愕然とする俺の内心を代弁するみたいに、エドウィンの腰巾着──側近──が「本気ですか」と尋ねる。

「流石に、その、……無理があるのでは」

 やっぱりそうだよな! うんうん! 俺の安堵を打ち砕くみたいに、「わかっているけどね」とエドウィンが言う。

「こうするしかないんだ。……愚かなことだと思うけどね。僕は、『賢妃セリーナの夫』と扱われる続けることに耐えられそうにない」

 エドウィンの声は静かで、そこには、悲壮ともいえる覚悟があった。

「もっと早くこうするべきだったんだよ。僕が世継ぎの器じゃないことを、みんな知ってた。だからセリーナをあてがったんだ。そうする前に、僕のほうをすげ替えるべきだったのに。……セリーナにおんぶにだっこで、玉座でにこにこ笑っているだけで、楽な立場だと羨むものもいるだろうけど」

 そのとおりじゃないか、と俺は思う。あんなに美しく気高い妃が横にいて、自分は何もしなくてよくて、なんなら可愛い愛人までいて、そんな素晴らしい人生のどこに不満があるんだ? ──思いながら、同時に、『理解できる』という気もした。
 理解できる。──幼少期よりずっと、『資質に欠ける』と判断されて、同年代の少女の補助を受け続ける……それが、思春期の少年にとって、どれほど自尊心を傷つけることなのか。

「僕はもう、それに耐えられない。……明らかに『足りない』、けれども長子相続の原則を破ってまで王太子の座から外すほどでもない、そんな僕がこの立場から降りるには、明らかな瑕疵が必要だ。隠し立てできないぐらいの瑕疵がね」
「しかしそれでは、……御身が」
「流石に殺されはしないと思うよ。廃嫡の後幽閉か、僻地にやられるか。できれば後者がいいけど」

 エドウィンは軽く肩をすくめて、どうやら、軽く笑ったようだった。

「リリーには話してある。……ついていく、と言ってくれたよ。一緒に羊でも飼いましょうって。逞しいよね。……子どもは作らないという条件で、彼女も連れていきたいけど、どうかな……」
「っ、それが望みであれば、なおのこと……!」
「うん。リリーといたいだけなら、こんな騒ぎを起こす必要はないよね。セリーナはリリーの存在を許していたから。……でも」

 エドウィンの声が、少しの暗さを帯びる。

「僕には、リリーがいてくれる。……じゃあ、セリーナには?」

 俺は息を呑む──俺が考えたこともなかったことを、今、エドウィンが言っている。

「国民は、『世継ぎを残すため』とかなんとか言って、僕の浮気には寛容だ。でも王妃は駄目だ──酷い非対称性だと思わないか? 僕もセリーナも、お互いを愛していないという条件は同じだ。それなのに、僕は誰かを愛することができて、セリーナにはそれが許されないなんて」

 確かに、と、俺は思った。
 俺は、『婚約破棄が行われないこと』が、八方を丸く収める方法だと考えた。悪役令嬢モノには元々不仲だったはずの正ヒーローに溺愛されるタイプのものも多く存在するから、二人の中が悪化せず、エドウィンがセリーナの魅力に気づきさえすれば問題ないだろうと思ったし──なにより、『ざまぁ』嫌いの事なかれ主義が、俺にその思考をさせたのだ。
 しかし、だ。
 しかし──これが本当に『悪役令嬢モノ』の世界であるなら、『婚約破棄』は、寧ろ必須イベントと言えるのではないか。婚約破棄までは物語の『フリ』にすぎず、婚約破棄をきっかけにヒーローと出会う、そういうシナリオのほうが圧倒的に多いのでは?
 だとしたら?

(俺は──セリーナのサポートをしていたつもりで、実際は、セリーナの幸福の邪魔をしようとしているんじゃないか……!?)

 だとしたら──それは、取り返しのつかなすぎる過ちだ。愕然とする俺の耳に、「だからね」と、ごく淡々としたエドウィンの言葉が入ってくる。

「僕はこれが、お互いのための、最良の選択肢だと信じるよ。──僕はセリーナから解放され、セリーナも僕から解放される。そうするべきなんだ」

 俺の過ちは。
 まだ、取り返しがつくだろうか。エドウィンたちが立ち去ってからも、俺はひたすらにそれを考えていた。


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