野いちご源氏物語 三四 若菜(わかな)上
そこへ明石(あかし)(きみ)がやって来た。
尼君(あまぎみ)女御(にょうご)様のすぐおそばにいることに困って言う。
(あま)姿(すがた)をお目にかけるのはみっともないことですよ。背の低いついたてだけでもお置きになってください。どこかの隙間(すきま)から誰かが(のぞ)()するかもしれないのに、まるで医者のように女御様にお近づきになってはいけません。そのくらいの判断もつかないほどお年をとってしまわれて」

尼君は自分ではまだしゃんとしているつもりだけれど、耳も遠くなっているから、
「ええ、何ですって」
と聞き返している。
そうはいってもまだ六十五、六歳のはずよ。
目元(めもと)が赤くなって泣いたあとのようになっているので、明石の君ははっとする。
「適当な昔話を申し上げたのではありませんか。年寄りはときどきとんでもない話をするものですから」
ほほえんで()(つくろ)おうとなさるけれど、女御様はしんみりと物思いなさっているの。
我が子ではあるけれど恐れ多い。
<悲しい昔話を聞いて動揺(どうよう)していらっしゃるのだろう。女御様がいよいよ中宮(ちゅうぐう)(くらい)におなりになることがあれば、そのときにお話し申し上げようと思っていたのに。今お聞きになったら、他のお(きさき)様たちに()()を感じてしまわれるのではないか。お気の毒なことだ>

食欲がおありでない女御様に明石の君が果物をおすすめする。
尼君はただお美しい女御様をにこにこと拝見している。
泣いたままだけれど口元(くちもと)はうれしそうで、明石の君が「もう下がってほしい」と合図をするけれど、まったくお動きにならない。
「年寄りが嬉し泣きしているのです。大目(おおめ)に見ていただいたってよいでしょう」
と言うと、女御様は、
「私が生まれ育ったという明石の海辺に、いつか尼君と行ってみたいものです」
とおっしゃる。
明石の君も泣きながら言う。
「あちらには祖父君(そふぎみ)もおいでですからね。出家(しゅっけ)の身ですが、女御様のことをずっとご心配申し上げておりますよ」
女御様は祖父君のお顔も思い出せないことを残念に思っていらっしゃった。
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