東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「馬です」
「ああ、今日は俺の馬のラストランなんだ。最後くらい見てやらないとな」
「……紀糸は馬主でしたか」
意外だ、とでも言いたげな視線を向けられる。
「俺だって動物くらい飼うぞ」
「競走馬は飼っているとは言えません」
「……」
言われてみれば、そうかもしれない。
「東雲の名を貰った馬だというのに、一度も勝ったことがないまま今日で終わりなんだ」
親はいい馬だったはずなのだが、人間もそうだが、血筋だけではどうにもならないようだ。
「一度も勝ったことがない? つまり、オッズは何倍になるでしょうか……」
「サンドピアリス並みに430倍くらいだったりしてな」
「あれですね、わさびが生まれる前の1989年のエリザベス女王杯」
何故この女はそんなことを知っているのか。本当によくわからない奴だ。
「なんという馬ですか?」
「シノノメ・ホース」
「……信じられないネーミングセンスの無さです。だから一度も勝てなかったに違いありません。まさかの、東雲の馬、でしょうか」
「俺がつけたんだが」
「……」
わさびは遠くを見ながら、何やら一人でぶつぶつ言い、俺と共に馬券売り場へと向かった。
「紀糸、わさびは単勝でシノノメ・ホースに掛けます」
だから、なぜそんなに詳しいのか。ただの女子高生ではないと思ってはいたが、まさか競馬にまで興味を持っていたとは……
「そうするか、いくらにする?」
「わさびは……一千万!」
その声が届いた範囲の人間が、ギョッとした目でこちらを見た。
「わさび……残念だが、お前は馬券を購入できない。20歳からだ」
まさか、自分の年齢を忘れていたわけではあるまい。
「そうでした……」
本当に忘れていたのか、急に元気がなくなってしまった。
「まぁ、わさびの気持ちを汲んで、俺がアイツのラストランに一千万の価値をつけてやるか」
「ずるいです、紀糸ばかり」
「大人だからな」
「わさびだって、紀糸に大人にされました」
「───ばっ! (小声)こんな場所でなんてこと言うんだ馬鹿」
慌ててわさびの口を押え、周囲を見回す。ただでさえ、先ほどの一千万で注意を集めていたというのに、この女は……さては、わざとか。
その後、スマホから銀行振り込みで一千万を入金し、馬券を購入した。
「紀糸、シノノメ・ホースに会えますか? 一緒に走るほかの馬にも」
「パドックに行けば、見れるんじゃないか」
「行きましょう」
目は相変わらず虚無だが、今日のわさびは少しだけ楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
気のせいだとしても、連れてきてよかった。
パドックにつくと、わさびは一番前を陣取り、馬に興味津々だった。
しかし……
「ねぇ馬さん、今日はシノノメ・ホースに勝ちを譲ってあげてください。今日で最後なんです。お願いします。わさびのお願い聞いてくれたら、みんなにニンジンとリンゴをお腹いっぱいプレゼントします」
と、突然叫び出した。
周囲の人たちは、まるで子供を見るような目で、微笑んでいるが、こいつは高校三年だ。
「わさび、もう少し恥じらいを持て……」
俺のその言葉を無視し、わさびはジッと馬を見ている。
「お、きたか、あれだぞ。シノノメ・ホース」
「シノノメ・ホース! 今日だけは名前の事は忘れて、全力で走ってみてください! そうですね、今日の君の名前は───“ゼロ・グラビティ”です! カッコいいでしょう! 重力を超えたスピード感で、一等賞です!」
懲りずにまたも叫びだすわさび。
くすくす、と周りから笑い声が聞こえる。
「……勘弁してくれ、わさび……名前のせいでこれまでアイツがサボっていたとでもいうのか」
「きっとそうです。かっこいい横文字がよかったといじけてます」
「ホースも横文字だが」
「……」
「なんだ、その目は」
「別に、わさびはもともとこういう目です」
こうして、レースは始まろうとしていた。