東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
 
 
「うそだろ……」
 
『シノノメ・ホースが先頭! なんとなんと、シノノメ・ホースであります! 全戦0勝のシノノメ・ホースが、まさかのラストランで驚きの走りを見せています! 奇跡! 奇跡、奇跡が今! 皆さんの目の前で起こっています! さぁ! さぁ! 瞬きをせずにその瞬間を今っ────』
 
 
 シノノメ・ホースは最終的に、伝説に近い300倍のオッズだった。つまり、一千万の単勝で馬券を購入した俺はの儲けは……30億。
 
「うそではありません。紀糸、このレースで走った馬にニンジンとリンゴと山ほど届けてください。もちろん、“ゼロ・グラビティ”にも」
 
「……任せろ」
 
 
 シノノメ・ホースのラストランは、どこから漏れたのか、別名“ゼロ・グラビティの奇跡”として、伝説に残るレースとして語り継がれることとなった。
 
 
「お前、本当にお爺の30億を簡単に増やしてくれたな」
 
 世間知らずの女子高生の言葉だと思って信じていなかったが、わさびは本当に簡単に増やしてしまった。
 シノノメ・ホースのオッズなど知らないにしても、ただの偶然とは思えない。
 
「わさびの30億は減っても増えてもいません」
 
「いや、この30億はお前の功績だ」
 
 わさびに言われなければ、さすがに一千万も買わなかった。
 それに、馬鹿げているとは思うが、パドックでのわさびの言動が、何かしら馬に影響を及ぼしたのではないか、と思っている自分がいる。
 
「では、引退後のシノノメ・ホースが快適に過ごせるようにしてあげてください」
 
「わかった、約束する」



 
 
 それから俺達は、週末、暇さえあれば一緒に出かけた。

 毎週出かけていたので、高校生の娘がいる運転手からのネタはすぐに尽きた。
 だからと言って、まさか俺が自分の秘書や秘書課の女性社員に、“女子高生が喜びそうな場所はどこか”などと尋ねる日がくるとは思わなかったが、みんな快くアドバイスをくれた。

 テーマパークに水族館、神社に大仏、パワースポットめぐりにミュージカル、競輪、ボートレース、相撲など、とにかくあちこち行った。



 今日のように天気の悪い日や、外出が面倒な日は、二人でリビングのソファーに寝転がり、ネトフルで映画や海外ドラマを一気見したりする。

 わさびは意外にもジャパニーズホラーが苦手なようで、俺が冗談で再生しようとするたびに、猫のようにパシッと無言で俺の手からリモコンを弾き落とす。
 それがなんとも愉快で、おすすめなどでジャパニーズホラーを見つけるたびにわざと再生しようとしてしまう。

「紀糸、わざとですね。わさびがリモコン係をします」

 そう言って俺からリモコンを奪うくせに、見ている途中で俺の肩や太ももを枕に、居眠りをするわさび。
 そんな時はあえて起こさず、俺はこっそりとリモコンを奪還し、ジャパニーズホラーを再生する。

 いつ起きるかと楽しみに、俺は映画ではなくわさびを観察する。
 すると、寝たふりをしたまま、そろりそろりと耳を塞ぎ顔を画面から背けようとしている事に気付く。

「わさび、見ないのか?」

「……」

「わさび? 起きてるんだろ」

「……」

「───っ! 噛んだな?!」

 わさびは仕返しだとばかりに、脂肪の少ない俺の太ももを噛むという荒技にでた。

「なんて奴だ……そういう事をするなら、俺にも考えがあるぞわさび、俺は悪い大人だからな」

「っ!」

 俺は彼女の身体を仰向けにひっくり返し、両手を拘束する。わさびは対して抵抗もせず、ジッと虚無の眼で俺を見る。

 本当はくすぐってやろうと思ったのだが……

 この時、何故か彼女の瞳に自分が映ったような気がした。ただそれだけの事が、思いのほか、俺は嬉しかったのだ。

「───(チュッ)」

「……」

「……悪い、口がすべった」

「……その言葉は今の場合、適切ではありません」

 今もまさに、吸い込まれそうなほどに大きく仄暗いわさびの瞳に、俺が映っている。

 俺は再び、ゆっくりと彼女の唇に自分の唇を重ねた。そのまま滑らせるように頬、目尻、瞼、鼻先の順に口付けていく。

「わさび、初めての時……痛かったか? ……悪かった。優しくしてやれなくて」

 乱暴に抱いたつもりはないが、最低な事を考えていたり初めてのわさびに3回もした事は、今考えると、本当に申し訳なかったと思う。

「あの痛みが900億だと考えたら、平気です」

「……」

 わさびはどんな時もわさびだった。

「わさび、俺がキスしたら嫌か?」

「もうしています」

「さっきまでのは子供のキスだろ。大人のキスだ」

「わさびは子供じゃありません」

「そうだったな───大人にされたんだもんな、俺に」

 わさびの下顎を引き、薄っすら開いたその隙間に、そっと舌を滑り込ませる。

 魔が差したわけでも、血迷ったわけでもなく、ただわさびが欲しくて口付けた。

 わさびは抵抗する事もなく、身体を強張らせる事もなく、ただ受け入れていたが、拘束を解かれた腕を俺に回してきたりする事もなかった。

 もちろんそれ以上の事はしなかったが、わさびと一緒にいて、こんな気持ちになる自分に驚いた。雰囲気や空気なんて一切無視のわさびに、だ。

 その時から俺は、抱いてはいけない感情を抱いてしまっているような、そんなむず痒く、消化不良の感情を燻らせる事になる。

 
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