東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
「紀糸は面倒な奴ですね」
「……」
俺はホテルでいいと言ったのだ。
しかしわさびは自分の家がいいと言って聞かず、仕方なしに宿泊のために必要な物資を買いに来た。
俺の下着やら何やらを買うために百貨店にまで足を運んだだけで、わさびは文句を言っている。
「そもそも、わさびの家に何もないのが悪いんだろ。普段どうやって生活してるんだ」
「圭介のを借りています」
「なっ……」
決めた。今日はわさびの分も買う。樋浦氏に借りる必要がないように多めに購入しておこう。
「なら、今日からは俺が買うものを使っていいぞ。樋浦氏に借りなくて済むな」
「……自分のお風呂を使うとお掃除が面倒です。わさび、汚いのは嫌です」
掃除も出来ないくせに、汚いのは嫌だとは、わさびも一応はれっきとした神楽のお嬢様だったわけか。
「……ハウスキーパーに頼め」
「それなら、圭介のお風呂を借ります」
「そうか、わかったぞ。ウチにいたあのオッサンを派遣しよう」
「え! 五郎さんですか? 五郎さんのごはんは大好きです!」
さすがは俺だ。いい事を思いついたものだ。そうすれば、樋浦氏への依存度は少しは減るだろう。彼もより仕事に集中できるはずだ。
「五郎さんが来てくれるなら、まだ社員寮が空いています。いっその事、寮父さんになってくれたら嬉しいです。紀糸、早めに連絡してください! わさびは圭介から待遇などの詳しい契約内容を書面にしてもらっておきます」
「……」
どちらにしても、樋浦氏はわさびの右腕という事か。まぁ、良き相談相手なのだろう。
それにしても、やはりわさびは頭の回転も早く、ビジョンの設定も的確だ。きちんと部下や人の使い方もわかっている。経営者向きだな。
「だが、急な話な上に、北海道まで来てくれるかはわからないぞ?」
「絶対来てくれます。わさびの所にアストレイザーがいると伝えたら、来てくれます」
「アストレイザー? 引退した競走馬か?」
突然何の話だろうか。
「何年も前に怪我で殺処分にされかけた子です。こっそりお爺が助けました。その時に落馬して引退したジョッキーが、五郎さんです」
「なんだと? あのオッサン、元騎手だったのか?」
「はい。ハウスキーパーの素性くらい、知らずにどうするのですか。わさびは知っていましたよ」
「……」
落馬で引退を余儀なくされたジョッキーの気持ちは計り知れないが、わさびがそう言うのなら、彼はそのアストレイザーとやらに想い入れが強いのだろう。
俺はその話を聞いて、すぐに秘書の田中に連絡を入れた。休みに申し訳ないが、対応を頼んだ。
「ところでわさび、恋人になった俺に、いつ連絡先を教えてくれるんだ?」
東京の人間には教えないという、わさびの連絡先だ。俺はまだ知らない。
「紀糸はわさびの恋人なのですか?」
「そうだ。わさびは俺が大好きで、俺も同じ気持ちだと伝え合ったのだから」
「なるほど。では恋人には教えましょう。恋人ですからね、わさびは、紀糸の恋人ですから、東京の人でも特別です」
恋人という響きが気に入ったのか、やたらに何度も口にするわさびがあまりに可愛らしくて、思わず抱きしめたくなった。ここが百貨店のなかでさえなければ……
「紀糸、恋人と婚約者は違うのですか? どちらが、紀糸の一番ですか? わさびは、一番がいいです」
駄目だ、この可愛い生き物を、早く連れて帰らなければ……
「わさび、せめて食事はホテルのレストランでしていかないか? せっかくここまで出てきたんだ」
「仕方ありませんね、いいでしょう」
やはり上から目線なのだな。どうしていつもそうなのか。
北海道の夜景もなかなか綺麗だと聞いている。ムードなど皆無だろうが、いくらわさびでも、綺麗なものには素直に喜ぶかもしれない。
「でも、コースの料理はわさびにはものたりません」
「そうか、そうだったな。安心しろ、単品でも頼んでやるから。テーブルマナーも気にせずいいからな、箸で食べよう」
「問題ありません。わさび、こう見えてテーブルマナーは完璧です。どこに出しても恥ずかしくない、とお爺はいいました」
───お爺……あなたのわさびは、もうおにぎりやパンだけを食べていた少女ではありませんよ。
「そうか、それは頼もしいな」
俺はわさびの頭を撫でた。
最終的に、酒を飲んだ俺達は車に乗れず結局そのままとっていた部屋に泊まることになった。