まだ君は知らない、君の歌
放課後の音楽室には、夕日が差し込んでいた。
西日に染まる窓ガラス。すりガラス越しに揺れる木の影。ほんのりと温かいオレンジ色が部屋を包み込み、まるでこの時間だけが特別に切り取られたような気がした。
アンプの電源が入る音、チューニングの微かな高音、コードを差し込むときのカチリという音。
そのどれもが日常になりつつあるのに、私はまだ、扉の前で深呼吸をする癖が抜けなかった。
(……大丈夫。大丈夫……)
私は小さく自分に言い聞かせる。
肩が自然と力んでいるのを感じて、指先に意識を向けて解く。
今日はうまく歌えるだろうか。みんなに迷惑をかけずに済むだろうか──そんな不安は、未だに毎日のように胸の奥でくすぶっている。
でも、それでも。
扉を開けると、今日も変わらない日常があった。
ギターを肩にかけたまま、奏良くんが振り向く。
夕日に照らされた髪がさらりと揺れて、まるで映画のワンシーンみたいだと思った。
真緒はベースのストラップを直しながら手を振ってくれる。
隼人はスティックを指の間で器用に回して、口笛を吹いていた。
悠は変わらずキーボードの前に座って無言だけど、ちらりとこちらに視線をよこして、軽くうなずいた気がした。
「絃音ちゃん、来たー! 今日もよろしくねっ」
真緒がいつもの調子で元気に声をかけてきた。その明るさに、自然と肩の力が抜ける。
「は、はい。よろしくお願いします、朝倉先輩」
「え〜、"真緒くん"って呼んで♡ ついでに隼人と悠のことも名前で呼んでやってよ、もう俺たち同じバンドの仲間なんだから」
「誰がついでだよ」
ドラムスローンに座ったままの隼人がぶっきらぼうにツッコミを投げてくる。
でも、名前呼びについては否定していないから、多分彼も同意のことなのだろう。
私が彼らに馴染めるように、と思いやってくれているのを感じる。
「あ、ありがとうございます……真緒くん」
少しだけ声が震えていたかもしれない。
でも、真緒くんは気づいても何も言わず、にこにこと笑っていた。
「よし、じゃあちょっと声出ししてから、最初のセクション合わせようか」
奏良くんが穏やかに言って、ギターを抱えたまま私を見た。
あの柔らかくて、どこか真っ直ぐな瞳に見つめられると、まだ少しだけ心がざわつく。
私はうなずき、マイクスタンドの前に歩み寄る。
コードの位置を少し直して、スタンドの高さを合わせて──そしてマイクを両手で包むように持った。
(また、緊張してる……)
喉が少し乾いている。心臓の音が、自分の耳の中だけで異様に大きく響いている気がして、少しだけマイクを持つ手に力が入った。
でも、不思議と“逃げたい”とは思わなかった。
それは、きっと。
(……奏良くんが、あんなふうに言ってくれたから……)
“君の声は奇跡なんだ。俺の音楽に必要な人なんだよ”
あの言葉は、どこか夢のようで、それでいて心の奥に温かく残っている。
まだ信じ切れてはいないけれど──信じてみたい、と思った。
自信なんて、まだ全然ない。
でも、あの人の音の中にいたいと思った。
そう思わせてくれる存在が、きっと私の背中をそっと押してくれている。
深呼吸をして、目を閉じる。
マイクの前で小さく喉を鳴らし、息を整えて──声を出した。
最初は少しだけ震えた。
けれど、それでも前よりは喉が開いている気がした。
高音がスッと出て、低音がぶれずに響く。
「……うん、今日もいいね」
奏良くんがそう言って、にこりと笑った。
その笑顔が、“ここにいていい”って肯定してくれている気がして、少しだけ胸が熱くなった。