まだ君は知らない、君の歌
放課後。
今日はまだ、他の部員が来ていない。奏良くんと二人きりの部室は、静かだった。
古い譜面台、壁に立てかけられたギターケース、窓から差し込む夕日。すべてが淡く、柔らかな色で包まれている。
奏良くんは椅子に腰かけ、ギターを爪弾いていた。何気ないフレーズ。でも、その音にはちゃんと意味があって、心に響いてくる。
私は隣の椅子に座り、胸の内にひっかかっていたものをぽつりと零した。
「……今日ね」
ギターの音が止まる。奏良くんがこちらを見る。
「クラスの子たちに……少し聞かれたの。奏良くんと、仲良すぎるんじゃないかって」
奏良くんは少しだけ目を見開いた。
「言われたんだ」
「うん」
「それで、何て答えたの?」
「……歌の話をしてるだけって」
私は苦笑した。それは嘘じゃない。でも全部を話したわけでもない。
軽音部の部室で、こうして二人きりで過ごすなんて、多分奏良くんのファンの子たちは想像もしていない。
他の部員のファンの子達だって、私が彼らのバンドでボーカルをしているなんて、きっと夢にも思っていない。
でも、それを誰かに言うのは、まだ少し怖かった。
奏良くんは、私の気持ちを咎めることもなく、ただ黙って聞いていた。そして、ふと笑った。
「それでいいよ。まだ無理することないから」
その言葉に、心がじんと温かくなる。
「……うん」
私はそっと頷いた。
奏良くんの言葉は、いつもまっすぐで、優しい。安心できる。でも、それと同時に、少しだけ胸が苦しくなる。
「でもね」
奏良くんはゆっくりと言葉を続けた。
「もし、君が堂々と話せるようになったら、それはそれで嬉しいな」
夕暮れの光が、彼の横顔を照らしている。穏やかで、真っ直ぐで――少しずるい。
こんなふうに信じてくれる人がいることが、ただ、うれしかった。
私は、視線を床に落とし、そしてまた顔を上げた。胸の奥から、自然に言葉がこぼれる。
「私……ちゃんと歌いたい」
その声は震えていた。でも、確かに自分の意志で発したものだった。
「あなたの曲を、私の声で……歌えるようになりたい」
その瞬間、奏良くんは目を見開く。そして、すぐにふっと微笑んだ。
「ありがとう、絃音」
その「ありがとう」は、ただの感謝の言葉じゃなかった。
まるで、私という存在を受け入れてくれたような、そんな深さがあった。
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。嬉しさで、泣きそうになるなんて思っていなかった。
奏良くんが、再びギターを鳴らす。
柔らかな音が、部屋の中を流れていく。私はその音に包まれるように、目を閉じた。
音が、言葉よりも先に心を揺さぶることがある。
あの日もそうだった。
彼のギターを初めて聴いたとき、私はただ立ち尽くしていた。
でも今は、違う。
私は、その音に、応えたいと思っている。
(私はまだ、弱いかもしれない。でも──)
あなたが信じてくれるなら、私も、私の声を信じてみたい。
音楽準備室に差し込む光が、少しだけ強くなったような気がした。