まだ君は知らない、君の歌



 教室に入った瞬間、私は妙な空気に気がついた。

 ――視線。

 ざわり、と何かがささやく気配。わずかに耳に届いた笑い声、誰かの視線。そんなものが連鎖して、胸の奥がちりちりと痛む。
 私の存在を軸に、音もない噂話が波紋のように広がっている気がした。クラスメイトたちの視線が、ちらり、ちらりと私に向けられ、すぐに逸らされる。

 私はすぐに目を逸らし、下を向いた。理由は、わかっている。
 奏良くんと話しているところを見られていたからだ。

 (……気のせいじゃないよね)

 今までの私なら、そのまま逃げるように席に向かっていただろう。なるべく目立たないように。息をひそめるように。
 でも、今日は違う。
 今朝、奏良くんが言ってくれた。

 ──俺は別に隠す気ないよ

 あの言葉が、心の奥で静かに支えになっていた。
 奏良くんが、恥ずかしくないと思ってくれているなら。

 私は背筋を伸ばし、いつもよりほんの少しだけ強い足取りで席へ向かった。周囲の視線が気にならなかったと言えば嘘になる。心臓はひどくうるさくて、喉が乾くほど緊張していたけれど。

 



 昼休み。
 予想していた展開が、静かに現実になった。


「ねぇ、一ノ瀬さん」


 呼びかけられた声に、ぴくりと肩が跳ねた。
 振り返ると、そこには永瀬美波(ながせみなみ)さんが立っていた。端正な顔立ちに、手入れの行き届いた綺麗な髪。彼女は、女子の間でも人気があって──それ以上に、奏良くんの“ファン”の中心にいる子だった。


「最近、奏良くんとよく話してるよね。仲良いの?」


 その問いは、思ったよりもまっすぐだった。言葉の表面は穏やかだけれど、その奥に、不審と警戒が隠れていることはわかった。
 彼女たちにとって、奏良くんは憧れであり、特別な存在なのだ。

 さっと教室に視線を走らせると、周囲の人たちが話を止めないままこちらの様子を伺っているのが感じ取れた。
 奏良くんは、既にいない。多分食堂に向かったのだろう。

(部活のことはできるだけ秘密にしたい……。でも、誤魔化すのも苦しい)

 奏良くんたちのバンド、《Re:st》は、ネットを通して校内外にもファンがいる。
 楽曲自体の人気もさる事ながら、彼らが投稿しているMV動画の中には、彼らの演奏風景を映したものがいくつかあり、『遠目でもイケメンなのがわかる』と本人たちのファンもついている。

 "軽音部に入る"というのは、"奏良くんと親しげに話す"のとは更に別の混乱を生むのは確定的だ。

 それでも──私は、今までの自分とは違う。
 胸の奥にある、小さな自信にすがるように、唇を開いた。


「そ、奏良くんとは、クラスメイトだから」


 なるべく落ち着いた声を心がけたけれど、内心はぐらぐらだった。
 美波が眉をひそめる。


「でも、放課後にふたりで話してたの見たわ。今朝も、昇降口で」

「えっと、その……」


 追い詰められるような感覚に、喉がきゅっと締まる。けれど、そのとき──ふと、胸の奥から言葉がこぼれ落ちた。


「……歌の話を、してただけ」


 そんな言葉が口をついて出た。
 我ながら、不思議だった。何かをごまかすためじゃない。逃げ道としてではなく、自分の言葉として、ちゃんと伝えたかった。


「歌?」

「うん。奏良くん、音楽が好きだから……」


 そう言いながら、自分の胸の内を少しだけ差し出すように言葉を続ける。


「この間、偶然だけど、奏良くんのギターを聴いて……それで、歌ってみることにしたの」


 美波は意外そうな顔をした。


「まだまだ下手だし、……人前で歌うなんて、昔は絶対に無理だって思ってた」


 言いながら、自分の顔がどんどん熱くなっていくのがわかる。恥ずかしい。でも、不思議と、それを隠そうとは思わなかった。


「でも、奏良くんが優しくしてくれて……私も少しだけ、自信が持てた気がしたの。ほんの少しだけど」


 私は自分の手が震えているのに気づいた。
 けれど──逃げずに視線だけは逸らさなかった。

 しばらくの沈黙のあと、美波の表情が少しずつ和らいでいくのがわかった。


「そうなんだ……そう、それで。最近の距離感は、そういうことか」


 美波さんはしばらく私を見つめたあと、ふっと小さく溜め息をつくと、彼女はほんの少し肩の力を抜いたように見えた。
 美波は少し間を置いてから、軽く笑った。


「ごめんね。ちょっと詰めすぎちゃったかも」

「う、ううん。直接聞いてくれて、ありがとう」


 私は小さく首を振った。

 そのまま美波は軽く手を振って去っていった。
 席に残された私は、どっと全身の力が抜けて、その場にへたり込むように椅子に座り込んだ。
 

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