まだ君は知らない、君の歌



 その日は放課後の空気が少しだけ澄んでいるように感じた。

 私は、軽音部の部室の前で立ち止まる。

 扉の向こうからは、すでに楽器の音がかすかに聞こえている。ベースのチューニング。ドラムのスティックがリズムを刻む音。そして――微かに、ピアノの響き。

 奏良に誘われたとはいえ、本格的な練習に参加するのはこれが初めてだった。緊張で手が冷たくなっている。


「大丈夫。もう“うちのボーカル”なんだから」


 隣に立つ奏良が、当たり前のように言った。


「……まだ、正式に入部届け出してないけど」

「それでも、君の居場所だよ」


 その言葉に、また胸の奥があたたかくなる。


「行こう」


 奏良が扉を開けた瞬間、部室の中の音がぱっと広がった。
 

「お、来たねー絃音ちゃん!」


 一番に声をかけてきたのは、ベース担当の朝倉真緒先輩。
 今日も女の子みたいに可愛い笑顔で、私の隣まで駆け寄ってくる。


「ついに俺たちの歌姫が本格デビューだね〜」

「そ、歌姫なんて、そんなのじゃ……」

「照れてるの可愛い~。でも本当のことだよ?」


 距離が近い。今日もすでに“懐いている”感じで、私は少し困ってしまう。


「……おい、絡みすぎんな。ビビって帰られたらどうすんだよ」


 呆れた声と共に入ってきたのは、ドラムの夏目隼人くん。
 相変わらず口は悪いけど、その言葉にはどこか優しさがある。


「ま、別に。俺はあんたの歌、ちゃんと聴けりゃいいし」

「……うん。よろしくお願いします」


 ぺこっと頭を下げると、「おー」とぶっきらぼうに返された。けれどその表情は、どこか満足げに見えた。

 そして――部屋の隅の電子ピアノの前に座っていたのが、キーボード担当の黒瀬悠先輩。
 彼は無言でこちらを見たあと、ぽつりと一言。


「あとは慣れるだけだ」

「は、はい。頑張ります」


 ぶっきらぼうだけど、優しかった。
 その一言が、私を認めてくれていることを、どこまでも真っ直ぐに心に響かせた。


「じゃ、今日はまず――この曲から合わせてみようか」


 そう言って奏良がギターを構えると、部室の空気がピンと張り詰めた。

 譜面台の上には、昨日とは別の有名な曲。

 彼らのバンド《Re:st》はオリジナル楽曲もたくさんある。
 けれど、まずは私がちゃんと歌うことに慣れるのが最優先。と、私が歌いやすい曲を考えてくれたらしい。


「一ノ瀬さん、まだ不安だと思うけど、大丈夫。俺たちが支えるから」

「……うん。やってみる」


 マイクを握る手が、少しだけ震えていた。でも、それを押し込んで深く息を吸い込んだ。

 ギターのリフが響く。ベースがそれに絡み、ドラムがリズムを刻む。ピアノの音がそっと寄り添ってくる。

 音が、私を囲む。

 その中に、私の声が――溶けていく。


「……──」


 最初のワンフレーズは、小さな声だった。でも――不思議と、怖くはなかった。

 皆の音が、背中を押してくれていた。

 奏良が目を細めて、優しく頷く。その視線が、「大丈夫だよ」と言ってくれている気がした。

 少しずつ声に力が乗る。旋律に感情がこもっていく。
 歌いながら、私は気づいた。

 ――これは独りじゃない。

 私の声に、皆の音が応えてくれる。

 息を吸い、ブリッジに入る。そこは高音のロングトーンがあるパートだった。いつもなら躊躇してしまうくらい。でも今日は、できる気がした。

 ギターが一段階音を広げ、私の声がその中に重なる。

「──君が、いたから――」

 高く、澄んだ声が部室に響いた。自分でも驚くほど、遠くまで届くような感覚があった。

 そして、ラストのコードが鳴り終わる。


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