―待ち合わせは、                   名前を忘れた恋の先で―

第17章|音楽室で、静かに

高校の許可を取って、大翔くんとふたりで母校を訪れたのは、日曜日の午後だった。

正門をくぐると、懐かしいはずの空気が胸の奥をふわりとくすぐった。
けれど、その空気の中に自分の記憶が結びつくことはなくて、
私はただ、「ここにいたことがあるらしい」という不思議な気持ちのまま、校舎の中へと足を運んだ。

「こっち」

大翔くんが歩き出す。
迷いのない足取りで、校舎の階段を上がり、3階の図書室を通り過ぎて、4階へ向かう。

そして、音楽室の前で、静かに立ち止まった。

「……ここだよ」

扉を開けると、ふわりと冷たい空気が頬にふれた。

誰もいない、昼下がりの音楽室。
窓際のカーテンが揺れ、その隙間から差し込む光が、
静かに床のタイルを照らしている。

「……ここ、覚えてる?」

大翔くんの声が、背後からやわらかく響く。

私は静かに首を振った。

「なんとなく見たことある気がするけど……
記憶に、はっきりとは残ってないの。ごめんね」

彼は「ううん」と小さく笑いながら、
部屋の隅にある椅子を引いて、私にも座るように促した。

私は、その隣に腰を下ろす。

しん、とした空間に、ふたり分の気配だけがあった。

「ここでさ……
紬が初めて、オレの“秘密”を見ちゃったんだよ」

「……秘密?」

「うん。朝早く来て、こっそりピアノを弾いてたの。
誰にも言ってなかったんだけど、
たまたま来た紬にバレちゃって」

私は思わず彼の顔を見た。

「……ピアノ?」

「そう。
高校ではずっと野球部だったし、ピアノなんてキャラじゃないって、
誰にも言えなかったんだよね」

彼の言葉は、どこか懐かしさをまとっていて、
それがまた、私には“知らない自分”を突きつけてくる。

──ここにいた“私”。
彼と、なにかを交わしていた“私”。

「……ごめんね。
きっと、そのときの私は、びっくりしながらも笑ってたんだろうけど……
今の私は、うまく想像することしかできないの」

私の声に、彼は少しだけ目を伏せてから、穏やかに微笑んだ。

「それでもいいよ。
今の紬に、少しでも“そのとき”を感じてもらえたなら、
それだけで十分だから」

私は静かに頷いた。

窓から差し込む光が、
どこか懐かしさを帯びたまま、ふたりを包んでいた。

──それは、思い出せないけれど、たしかに“心”が動いた時間だった。
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