―待ち合わせは、                   名前を忘れた恋の先で―

第6章|投げられないマウンド

「……いねぇ」

観客席を見上げながら、唇をかみしめる。

試合開始直前。
背番号「1」のユニフォームを着た高瀬大翔は、ずっとある“ひとり”の姿を探していた。

彼女は、来ると言った。
いや──言ってはいなかった。
けれど、目の奥で確かに、そう約束してくれたと思っていた。

 

試合が始まる。

けれど、大翔の心は落ち着かなかった。
足が地に着かない。指先が震える。
何度もキャッチャーとサインを合わせるが、しっくりこない。

──ズバン!

ボールがミットからわずかに外れ、審判が静かに「ボール」とコールする。

 

1回、2回、3回……
焦れば焦るほど、フォームが崩れていった。

「どうした、大翔!」

ベンチからの声が飛ぶ。
しかし、何も聞こえなかった。
ただ、観客席にいない“彼女”の存在の空白だけが、大翔の中にぽっかりと穴をあけていた。

 

「マウンド、代われ!」

監督の声に、ついに首を振れなくなる。
悔しさと戸惑いに満ちたまま、大翔はベンチへ戻った。

試合は接戦の末、1点差で敗北。
夏は、そこで終わった。

 

ロッカールーム。
仲間たちが泣き崩れる中、
大翔は、静かにバットのグリップを見つめていた。

──彼女は、どうして来なかったんだろう。

怒った?
幻滅した?
それとも──最初から来るつもりなんて、なかったのか?

 

けれどこのとき、大翔はまだ知らなかった。

彼女が試合前日に階段から突き落とされ、
病院のベッドの上で、彼のことを「すっかり忘れてしまっていた」ということを。
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