陽だまりのエール
***

「縫合に入ります。4-0縫合糸ください」
俺は術野から目を離さずに、隣に立つ器械出し看護師に右手を出した。
「はい」
糸を通した針が差し出されたのを視界の端で確認して、指先で摘まんで受け取る。
正中を貫く術創を慎重に縫い合わせて、今日のオペは完了だ。
糸が残った針を膿盆に置いて、吐息を漏らす。
「二十時まで、十五分置きにバイタルチェック。異変があればすぐに知らせてください」
「はい。お疲れ様でした」
看護師の労いを背に、俺は手術台から離れた。
デイスポーサル手袋を外し、続いて首の後ろの紐を引いてガウンを脱ぐ。
手術室を出ると、キャップとマスクを外して、手洗い台に立った。
肘、二の腕までたっぷり一分間かけて手を洗い終えると、ここでも一息ついて正面の鏡を見つめた。
今日の業務はこれで終了だが、術後の患者の容態急変に備えて、二十時までは医局で待機しなければならない。
とはいえ、カルテやら報告書など記録業務が残っていて、二十時まではあっという間だ。
術着の上から白衣を羽織り、足早に医局へと戻る。
先輩や同僚、研修医たちと挨拶を交わし、自席に着いた。
椅子に深く腰かけ、喉を仰け反らせて天井を仰ぐ。
軽く目を閉じると、網膜に浮かんだのは紬の顔だった。
一瞬、現実から意識が離れそうになり、慌てて目を開ける。
背を起こし、パソコンの電源を入れてから、ぼんやりと頬杖をついた。
卓上カレンダーに視線を流し、なんとなく溜め息が漏れる。
渡英までもう二週間を切った。
住居を片付ける必要はない。
身の回りのものを持っていくだけだから、日本を離れる実感はまだあまりない。
そして、紬からいい返事をもらえそうな予感もしないーー。
目を落とし、溜め息を零すと同時に、パソコンが起動した。
かぶりを振って雑念を払い、術中記録を始める。
しかし、先ほどまで気を張っていた反動か、集中力が続かない。
俺は一旦記録を諦め、頭の後ろで両手を組んで身体を伸ばした。
目蓋の裏に紬の姿が浮かんでも、払ったりしない。
ーー正直なところ、自分でもなにが最善だったかよくわからなくなっていた。
仲間も交えて十年以上、共に生活してきた人だ。
ルームシェアの終わりが迫っても、別れたくない。
はっきり形のある関係を築かねば、もう永遠に一緒にいられないかもしれないと思った時、恋人というのは今さらな気がしてならなかった。
少なくとも、嫌われてはいない。
どちらかで言えば、好意を得ている自信はあった。
超遠距離恋愛などしたくない。
紬とずっと一緒にいたい、この願いを叶える最良の関係は『夫婦』だろうと考えた。
しかし、俺のプロポーズに困惑しきっている紬を見れば、『結婚』を言い出すのは間違いだったと思わざるを得ない。
時間がない。
これからどう挽回すればいいのかーー。
「…………」
難しく顔を歪め、キーボードに指を戻す。
記録を再開したものの、俺の思考は紬のことを考えてやまない。
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