陽だまりのエール
その日、俺は午後十一時を過ぎて帰宅した。
リビングには寄らず、まっすぐ二階への階段を上がる。
廊下を奥へと歩き、向かい合った二つのドア。
向かって右側が紬の部屋だ。
灯りは漏れていない。
「……紬?」
一応声をかけたが、返事はない。
音を立てないようにドアを開けると、紬はベッドで眠っていた。
ドア口からそれを確認して、ゆっくり中に入る。
俺が近づいても起きる様子はない。
スースーと規則正しい穏やかな寝息を立てているところを見ると、ぐっすり眠れているようだ。
「……よかった……」
安堵のあまり呟いて、ベッドの傍らに膝をつく。
今日、仕事で外出中に倒れ、俺が勤める病院に搬送されてきた紬は、一度意識を取り戻した後、同僚の女性に付き添われ、先に帰宅していた。
その女性の話では、今大きなプロジェクトが動いていて、紬はとても張り切っていたそうだ。
そのせいでオーバーワークになったのかもしれない。
倒れたのは熱射病というより、寝不足と疲れが原因だろうというのが、救急医の診断だった。
同僚の女性は、『自分がもっと気遣ってあげていられたら』と肩を落とした。
しかし、紬の寝不足と疲れの原因は、恐らくオーバーワークではない。
しっかりと、思う存分仕事だけに集中できる状況だったら、紬はちゃんと自己管理できたはず。
心を乱したのは、十中八九俺のせいだろう。
「ごめんな、紬……」
強い自責の念が込み上げてきて、ベッドに肘をついて頭を抱える。
兼ねてから希望していたロンドンへの赴任が決まりーー。
紬にプロポーズしようと決めて帰ったあの日、彼女はビッグプロジェクトに抜擢されたと、頬を紅潮させて俺に話してくれた。
ゲーム好きが高じて、紬は就職先として、ゲームメーカーを志望していた。
しかし志望先から内定をもらえず、今のおもちゃメーカーに就いた。
ただの事務職、代わりはいくらでもいる仕事。
自分の仕事のことを、紬はそんな風に話していた。
それでも、与えられた仕事は全力でこなしてきたことも、俺はちゃんと知っている。
入社当初の配属先は、マーケティング部。
いつかは商品を生み出す仕事がしたいと希望を出し続け、二年前、念願の商品企画部への配属が叶った。
ちょうど俺が研修医課程を終えた時期と被り、二人でお祝いしたのを、昨日のことのように覚えている。
今回のプロジェクトは、紬にとって初めての大仕事だ。
同僚の女性から聞かなくても、相当張り切っていたことは、連日のように家に仕事を持ち帰って励む姿を見ていたからこそよくわかる。
リビングで寝落ちしている紬を、俺は何度も見つけた。
そんな彼女に、俺のプロポーズは負け確定のただの博打だった。
今、ロンドンに一緒に来てほしいだなんて、会社を辞めろと言っているのと同じことなのに、彼女を困らせただけだ。
多分、思うように仕事が捗っていなかったのだろう。
この数日の彼女の寝顔は、難しく眉を寄せられ、疲れ切っていた。
初めてのプロジェクトメンバーで、仕事の勝手が掴み切れていないのもあるだろうが、俺が心を惑わせていたことも理由の一端のはず。
「ごめん。ごめん……」
申し訳なくて、謝罪を繰り返す声が震える。
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