陽だまりのエール
家に帰り、食事とシャワーを終えた後、私はダイニングテーブルの上でノートパソコンを開いた。
今夜は、傍らに山のような資料はない。
私にとって今、なにが一番大切か……。
自分の中から全部掘り返して、答えを探す。
一度自分を無にしてみると、大切なものはすぐによぎってくる。
家族、友達、生活、取り巻く環境。
今はやりがいを感じられるようになって、仕事も大事だと胸を張れる。
そしてもちろん、陽希の顔も脳裏に浮かんだ。
だけどこのままじゃ、陽希との生活は終わってしまう……。
「…………」
迫り上がってくる焦燥感を紛らわせようと、私はパソコンに向かった。
もし、私が陽希と同じように、この生活を終わらせないために結婚に踏み切るとしたら、どうなるだろう……?
夫婦という関係を築くだけで、二人の生活に大きな変化はないはず。
だから、変化への不安は持たずに済む。
問題は、生活する場所がここではなくロンドンだということ。
そこで、ロンドンの情報を得ようと、ネットで検索を始めた。
気候に風土、生活事情。
交通手段や日常品が買えるマーケットの場所、役所に病院ーー。
そういえば、陽希はどの辺りに住むのだろう?
どこの大学病院で勤務するのかも聞いてなかった。
ロンドンといっても広いし、もしかしたら近郊都市という可能性もある。
そうなると、闇雲に調べたって意味がない。
私はテーブルに肘をつき、顔の前で両手の指を組んで目を閉じる。
視界を閉ざし、今まで陽希と過ごした日々の記憶を思い描く。
特別な出来事なんかなくても、毎日穏やかで楽しくて、もうすぐ終わると思うと泣きたくなるくらい幸せな思い出。
陽希との生活は、私にとって一番といっていいほど大切なものだ。
終わりにしたくない、手放したくない。
だけど……。
ーーダメだ。変わらないわけがない。
私たちはシェアメイトとしての付き合いは長くても、恋人同士になったことがないんだから。
それがいきなり夫婦になったりして、なにも変化しないわけない。
それなのに、まったく不安がないなんて、どうして言い切れる?
私の『好き』は、陽希に負けないくらいの強さではない。
変化に対する不安を乗り越えられるかわからないままで、結婚できるかと言われたらーー。
「……紬? 起きてる?」
「っ……!」
不意にすぐそばで声がして、私はバチッと目を開けた。
慌てて顔を上げると、私の横に陽希が立っていた。
私の勢いに驚いた様子で、目を丸くしている。
「あっ。お、お帰りなさい」
私が取り繕って声をかけると、彼は怪訝そうに「うん」と頷いた。
そして、ハーッと溜め息をつく。
「焦った……また無理して意識失ってるのかと……」
「あー……その節はごめんね。陽希にも迷惑かけたよね……」
がっくりとこうべを垂れる彼に、私はきまり悪くてぎこちなく謝る。
「俺は、迷惑なんかかけられてない」
陽希は目を伏せ、かぶりを振った。
「……迷惑かけたのは、俺の方だろ」
「え?」
なにか苦い呟きを耳にして、私は当惑気味に聞き返した。
どうしたのか、陽希は思い詰めたような表情を浮かべて黙っている。
「ええと……あの……」
話題を変えた方がいい予感がして、私は目を泳がせた。
そして、ポンと手を打つ。
「あのね、ゲーム進めない? 私、今日は仕事もひと段落したから……」
笑顔を作って見せたけど、陽希の視線は動かない。
彼の視線は、私のノートパソコンに注がれていた。
その画面には、ロンドンに関するウェブサイトが開かれている。
「あ! これね。陽希、どの辺りに住むのかなあって……」
私は意味もなくうろたえて、聞かれもしないのに説明した。
それでも、陽希はパソコンを見つめたまま。
その横顔が、どこか険しく見えて……。
「あの……陽希?」
「もういいよ」
「は?」
目を伏せ、首を振る彼を、困惑して見上げる。
陽希はゆっくり目を開けて、私の頭に手を置いた。
「もう悩まなくていいよ、紬」
なぜだか私を宥めるように、私の頭の上でポンポンと手を弾ませる。
「はる……き?」
彼の言動の意味がわからず、私はされるがままで彼を仰いだ。
「紬は今、大事な仕事に打ち込んでる。俺に、途中で投げ出させる権利なんかないよな」
寂しげな笑顔を向けられ、彼が言わんとする意味がようやく掴めた。
途端に、私の心臓がドクンと湧き立つ。
「っ、はる……」
「忘れて。俺が言ったこと」
陽希は静かにそう言って、私の頭から手を引っ込めた。
瞬きすることも忘れて、呆然とする私に、儚く微笑みかける。
「ゲームソフトじゃなくても、自分で手掛けたものを世に生み出すチャンスを、紬は掴み取れるところまで来てる。それなら今は他のことに惑わされないで、全力を尽くして」
まるで諭すような言葉が、私の胸にすんなりと沁み入る。
「それが今、紬にとって一番大切なこと……だろ?」
陽希の柔らかい穏やかな声が、私一人では辿り着けなかった答えを照らしてくれた。
そんな感覚に、胸が震える。
「俺は、いつも頑張る紬が好きだ」
「っ……」
「俺のそばに繋ぎ止めておきたいわけじゃないんだ。たとえ遠く離れていても、俺は紬を応援するし、想ってる。今までもこれからも」
「……陽希っ……!!」
彼の言葉の途中で、私は堪らず立ち上がった。
なりふり構わず、その広く温かい胸に飛び込む、
「っ……」
「ごめん……ごめんね、陽希」
彼の胸の温もりを頬に感じた途端、涙がとめどなく溢れ返った。
「陽希のこと大好きだし、離れたくない。……でも、今じゃない。今じゃないの。私……」
陽希に導かれなければ、自分が今なにを一番大切に思っているか気づけなかった、それが堪らなく情けない。
自分のことなのに、結局彼に助けられた自分が不甲斐ないけど、そうして私は辿り着けた。
今私が大切なもの、それは初めて打ち込んでいる仕事だった。
「わかってるよ」
陽希は静かに言って、私の肩に両手を置く。
「ロンドンで、紬が携わった商品を手に取る日を、楽しみにしてる。一つでも二つでも、それ以上になっても」
「うん。……うん」
陽希って、まるで陽だまりみたいだ。
大きくて暖かくて、私をまるごとすっぽり包んでくれる。
「陽希、見ててね」
すぐ耳元に聞こえる彼の鼓動に、私はそう挑みかけた。
「頑張れ、紬」
陽希の言葉、それは、なによりも私に強い力をくれる温かいエール。
これからはそばで聞けないけど、今この瞬間を胸に、私は一人でも頑張っていく。
自分と陽希に、そう誓った。
今夜は、傍らに山のような資料はない。
私にとって今、なにが一番大切か……。
自分の中から全部掘り返して、答えを探す。
一度自分を無にしてみると、大切なものはすぐによぎってくる。
家族、友達、生活、取り巻く環境。
今はやりがいを感じられるようになって、仕事も大事だと胸を張れる。
そしてもちろん、陽希の顔も脳裏に浮かんだ。
だけどこのままじゃ、陽希との生活は終わってしまう……。
「…………」
迫り上がってくる焦燥感を紛らわせようと、私はパソコンに向かった。
もし、私が陽希と同じように、この生活を終わらせないために結婚に踏み切るとしたら、どうなるだろう……?
夫婦という関係を築くだけで、二人の生活に大きな変化はないはず。
だから、変化への不安は持たずに済む。
問題は、生活する場所がここではなくロンドンだということ。
そこで、ロンドンの情報を得ようと、ネットで検索を始めた。
気候に風土、生活事情。
交通手段や日常品が買えるマーケットの場所、役所に病院ーー。
そういえば、陽希はどの辺りに住むのだろう?
どこの大学病院で勤務するのかも聞いてなかった。
ロンドンといっても広いし、もしかしたら近郊都市という可能性もある。
そうなると、闇雲に調べたって意味がない。
私はテーブルに肘をつき、顔の前で両手の指を組んで目を閉じる。
視界を閉ざし、今まで陽希と過ごした日々の記憶を思い描く。
特別な出来事なんかなくても、毎日穏やかで楽しくて、もうすぐ終わると思うと泣きたくなるくらい幸せな思い出。
陽希との生活は、私にとって一番といっていいほど大切なものだ。
終わりにしたくない、手放したくない。
だけど……。
ーーダメだ。変わらないわけがない。
私たちはシェアメイトとしての付き合いは長くても、恋人同士になったことがないんだから。
それがいきなり夫婦になったりして、なにも変化しないわけない。
それなのに、まったく不安がないなんて、どうして言い切れる?
私の『好き』は、陽希に負けないくらいの強さではない。
変化に対する不安を乗り越えられるかわからないままで、結婚できるかと言われたらーー。
「……紬? 起きてる?」
「っ……!」
不意にすぐそばで声がして、私はバチッと目を開けた。
慌てて顔を上げると、私の横に陽希が立っていた。
私の勢いに驚いた様子で、目を丸くしている。
「あっ。お、お帰りなさい」
私が取り繕って声をかけると、彼は怪訝そうに「うん」と頷いた。
そして、ハーッと溜め息をつく。
「焦った……また無理して意識失ってるのかと……」
「あー……その節はごめんね。陽希にも迷惑かけたよね……」
がっくりとこうべを垂れる彼に、私はきまり悪くてぎこちなく謝る。
「俺は、迷惑なんかかけられてない」
陽希は目を伏せ、かぶりを振った。
「……迷惑かけたのは、俺の方だろ」
「え?」
なにか苦い呟きを耳にして、私は当惑気味に聞き返した。
どうしたのか、陽希は思い詰めたような表情を浮かべて黙っている。
「ええと……あの……」
話題を変えた方がいい予感がして、私は目を泳がせた。
そして、ポンと手を打つ。
「あのね、ゲーム進めない? 私、今日は仕事もひと段落したから……」
笑顔を作って見せたけど、陽希の視線は動かない。
彼の視線は、私のノートパソコンに注がれていた。
その画面には、ロンドンに関するウェブサイトが開かれている。
「あ! これね。陽希、どの辺りに住むのかなあって……」
私は意味もなくうろたえて、聞かれもしないのに説明した。
それでも、陽希はパソコンを見つめたまま。
その横顔が、どこか険しく見えて……。
「あの……陽希?」
「もういいよ」
「は?」
目を伏せ、首を振る彼を、困惑して見上げる。
陽希はゆっくり目を開けて、私の頭に手を置いた。
「もう悩まなくていいよ、紬」
なぜだか私を宥めるように、私の頭の上でポンポンと手を弾ませる。
「はる……き?」
彼の言動の意味がわからず、私はされるがままで彼を仰いだ。
「紬は今、大事な仕事に打ち込んでる。俺に、途中で投げ出させる権利なんかないよな」
寂しげな笑顔を向けられ、彼が言わんとする意味がようやく掴めた。
途端に、私の心臓がドクンと湧き立つ。
「っ、はる……」
「忘れて。俺が言ったこと」
陽希は静かにそう言って、私の頭から手を引っ込めた。
瞬きすることも忘れて、呆然とする私に、儚く微笑みかける。
「ゲームソフトじゃなくても、自分で手掛けたものを世に生み出すチャンスを、紬は掴み取れるところまで来てる。それなら今は他のことに惑わされないで、全力を尽くして」
まるで諭すような言葉が、私の胸にすんなりと沁み入る。
「それが今、紬にとって一番大切なこと……だろ?」
陽希の柔らかい穏やかな声が、私一人では辿り着けなかった答えを照らしてくれた。
そんな感覚に、胸が震える。
「俺は、いつも頑張る紬が好きだ」
「っ……」
「俺のそばに繋ぎ止めておきたいわけじゃないんだ。たとえ遠く離れていても、俺は紬を応援するし、想ってる。今までもこれからも」
「……陽希っ……!!」
彼の言葉の途中で、私は堪らず立ち上がった。
なりふり構わず、その広く温かい胸に飛び込む、
「っ……」
「ごめん……ごめんね、陽希」
彼の胸の温もりを頬に感じた途端、涙がとめどなく溢れ返った。
「陽希のこと大好きだし、離れたくない。……でも、今じゃない。今じゃないの。私……」
陽希に導かれなければ、自分が今なにを一番大切に思っているか気づけなかった、それが堪らなく情けない。
自分のことなのに、結局彼に助けられた自分が不甲斐ないけど、そうして私は辿り着けた。
今私が大切なもの、それは初めて打ち込んでいる仕事だった。
「わかってるよ」
陽希は静かに言って、私の肩に両手を置く。
「ロンドンで、紬が携わった商品を手に取る日を、楽しみにしてる。一つでも二つでも、それ以上になっても」
「うん。……うん」
陽希って、まるで陽だまりみたいだ。
大きくて暖かくて、私をまるごとすっぽり包んでくれる。
「陽希、見ててね」
すぐ耳元に聞こえる彼の鼓動に、私はそう挑みかけた。
「頑張れ、紬」
陽希の言葉、それは、なによりも私に強い力をくれる温かいエール。
これからはそばで聞けないけど、今この瞬間を胸に、私は一人でも頑張っていく。
自分と陽希に、そう誓った。