フィクションですよね⁉︎〜妄想女子の初恋事情〜

広がった世界

「申し訳ありません、すぐに訂正します」
 
課長の植島に向かって、楓は深々と頭を下げる。

「いやいや、そこまで急ぎじゃないから、今日中でいいよ」

「いえ、すぐに……本当にすみません」

「そんなに落ち込まないで、このくらいのミスはみんなしてるからさ」

「……はい」
 
もう一度頭を下げてから楓は席に戻る。パソコンの画面を見つめてため息をついた。
 
お家デート体験から四日が過ぎた。東京見学するぞと張り切っていた早苗は、どうやら新しい彼氏と会う予定があるようで『やっぱり就職は地元かな』と調子のいいことを言って、説明会が終わり次第帰っていった。
 
楓はというと、失恋確定の恋をしてしまっていたという衝撃から立ち直れず、ずっと気分は最悪だ。
 
いつもなら数字を見ればバチっと気持ちが切り替わり集中できるはずなのに、それがどうにもうまくいかず、普段はしないミスをしては、さらに落ち込む日々が続いている。
 
返す返すも、自分の鈍さと間抜けさが憎かった。
 
せめてお家デートより前に自分の気持ちに気がついていれば、あんなこと頼まなかった。そしたらキスされて逃げ出すなんて大失態をしでかすことはなかったのに……。
 
もう一度ため息をついた、その時、デスクトップ 画面の向こう、入口のところに伊東の姿を発見する。心臓が飛び跳ねた。
 
彼は経理課に向かって歩いてくる。姿を見るのはあの日以来だ。
 
外出から戻ったところだろうか、彼はスーツの上に黒いチェスターコートを身に着けている。その存在感は彼が言葉を発する前に周囲に伝わる。

「伊東くん、外からの戻り? 寒かったでしょ」
 
山口からの呼びかけににっこりと笑った。

「寒かったです。夕方から雪が降るみたいですね。植島課長、うちの市(いち)原(はら)からの届け物です」
 
植島に呼びかけて封筒を差し出した。

「ああ、伊東くん、お疲れさま。わざわざありがとう」

「いえ、それでは」
 
短いやり取りをして、彼はサッと踵を返しまた出口へ向かって去っていく。パソコンの陰で気配を消していた楓はほっと肩の力を抜く。そしてそのまま彼を見つめる。
 
コツコツと歩く彼にフロアの視線が吸い寄せられるのはいつものこと、気配を消している楓には仕事で必要がない限り声をかけないのも当然だ。
 
そんなことはわかっている。
 
それなのに。
 
ギュッと胸が絞られるように痛かった。
 
この距離が、本来のふたりの距離なのだということを思い知らされるようで、どうしようもなくつらかった。
 
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