恋うたかるた

〝地方営業所へ沢田さんが出張に行く日は女子社員の服や化粧が変わるそうよ〟

 かつてそんな伝説のような噂を聞いたことを志織は思い出した。

 志織自身も遠い憧れを抱いていた沢田が今、目の前にいる。

 そして自分に向けて〝ファンだった〟と言った。

「わたしこそ沢田さんのファンでしたけど、人気がすごく高かったから…」

「それはガセネタだろ?」

 沢田は声を上げて笑った。



 志織がいた沢田の部署は設計部だったので、賞を取った住宅の写真や、事務所の近影などを見せてもらっているうちに2時間があっという間に過ぎた。

「これ、今日の手間代」

 沢田が小さな封筒を差し出した。

「え? 何ですか?」

「だから、今日の手間代と交通費だよ」

「とんでもない! そんなのいただけません」

「いや、仕事だから受け取ってもらわないと困る」

 別れ際の押し問答になる。

「そんなのいただくならもう来れません」

「それも困るから、じゃあ次は仕事じゃないということにしよう」


 真顔で封筒を握らせ、納得させるように肩を押さえられた彼の手の力に、志織は何年も忘れていた〝男〟を感じた。

「お気遣いいただいて、ありがとうございます」

 断り切れずに封筒を受け取った志織はわずかに震えそうな声で礼を言うと、笑顔の彼に手を振られながらマンションをあとにした。



〝次は仕事じゃないこと…〟と言われた意味を考えながら志織は車に乗り込んだ。

(とりあえずお礼だけは言わなくちゃ…)

 スマホを開いてLINEを打つ。

>気をつけて帰ってください

 すぐに返事が届く。
 特別なことは何も書かれていない。

(2週間後には仕事で伺うのだし…)

 そんなことを思いながら受け取った封筒を開けると、そこには1万円札が1枚入っていた。

(え、こんなに… どうしよう…)

 そして、添えられた小さな紙にはこう書かれていた。

〝今日はありがとう。
 次回を楽しみにしています  沢田 〟

(そうだ、今月は沢田さんの誕生日のはずだ)

 ふとそれに気づいた志織は、思い立ったようにカーナビに途中のデパートを入れるとゆっくりとアクセルを踏んだ。

 開いた窓を吹き抜ける清々しい空気が肩に掛かる彼女の髪を撫でていった。
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