恋うたかるた
(来てしまった…)
顔を伏せるようにして手を引かれながらエントランスを入った志織は、エレベータに乗ってからも沢田の顔を見ることができなかった。
(寒かったから仕方なかったのよね…)
自分に言い訳をしながら眼を落として行先階ランプだけを眺めている志織の手はしっかりと沢田の手を恋人つなぎで握っていた。
「ごめんね、寒かったね」
「いえ、大丈夫です…」
部屋に入った志織は沢田とそれだけの言葉を交わすと、両腕を胸の前でたたんだまま彼に抱きすくめられた。
雪に濡れて冷たくなっていた髪を指でほぐされながら沢田に梳かされると志織の口から吐息のような切なげな声が漏れた。
「しおりちゃん…」
新入社員の頃に憧れた沢田に20年近く経って名前で呼ばれた志織は、胸で合わせていた手をほどくと、沢田の背に回して力を込めた。
「しおりちゃん…」
もう一度志織の名をつぶやいた沢田に頬ずりするように顔が寄せられると、その冷えた唇に温かい唇が重ねられた。
閉じたままの唇が沢田の舌先でそっと開かれると志織は迎え入れるように舌を絡ませた。
首を左右に何度も傾けながら長い時間、唇は重なり合い続け、ふたりに挟まれた胸が押しつぶされんばかりで息ができなくなった志織は深い吐息とともに唇を離すと沢田の胸に顔を埋めた。
(憧れていたあの人に…)
そう思うと志織は涙が出そうになった。
「お湯わかそうか…」
背中を離れた手でそっと肩をつかまれた志織は沢田の声にこくんと小さくうなずいた。
「あ、わたしやりますから」
カップを出しかけた彼に志織は我に返って言った。
何の音もしていなかった静かな部屋に、有線からピアノのバラードが流れる中、ペーパードリップのコーヒーとティーバッグをセットしてケトルのお湯を注ぐ。
広がる香りと泡を感じながら志織は、このあとどうなるのだろうという期待と不安に包まれていた。
コトンと小さな音を立てて、ローテーブルにカップを置くと志織は彼に並んでラブチェアに腰を下ろした。
「ありがとう」
コーヒーの香りに混じって煙草の煙をゆっくりと吐き出す沢田の少し物憂げな横顔を、志織は懐かしく見つめていた。