恋うたかるた
「松石さんは紅茶だったよね」
「はい、でもそれ、覚えていらっしゃったんですか?」
「覚えてるよ。 初めて喫茶店行ったときに、〝わたしコーヒーだめなんです〟って言ってただろ?」
新人の頃に客先同行のあとで入った喫茶店の、20年近くも昔のひとことを彼は覚えてくれていたのだ。
志織は嬉しくてならなかった。
〝志織さんは、普段の仕事やプレゼンテーションに使う絵がとても繊細で、お客様に渡してしまうのがもったいないくらい仕上がりもそのお姿どおりに美しいので…〟
結婚式で上司としてお世辞交じりの笑いを誘う祝辞を送ってくれた沢田の言葉を志織は思い出していた。
ずいぶん昔のことがつい先日のことのように浮かび上がってくる。
「今日も僕のところだけ?」
「はい、日曜日はたいていそうです」
「そうか… お嬢さん待ってるんだろ?」
瑞穂はその日も模試に出かけていて戻りは夕方だと志織が応えると、沢田は少し顔をほころばせた。
「じゃあ慌てなくていいんだ」
「はい、大丈夫です」
訪問2回目のその日は緊張も多少解けて昔話に話が弾んだ。
笑ったはずみで沢田の肩越しに見えた彼の亡妻の写真の上にある色紙が眼に入った。
そこには百人一首にある和歌が美しい手書き文字と挿画で描かれていた。
『あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む -柿本人麻呂-』
「素敵な色紙ですね」
「ああ、あれか…」
志織の視線の先にある色紙を沢田が振り返る。
「アレが好きだったんだ」
妻が百人一首をとても好きで、一番好きな歌を色紙にしてもらって飾っていたんだ、と沢田が懐かしむように応えた。
「〝の〟が韻を踏んでいてわたしも大好きな歌です」
「え? 松石さんも詳しいんだね」
「わたし、高校の時に〝かるた部〟だったんです」
「そうだったんだ… あいつが生きていたら喜んだだろうな…」
かすかに複雑な表情を浮かべた沢田の顔を見て志織が、もっと話をしていたいと思ったその日も予定の2時間を過ぎようとしていた。