この音が、君に届くなら

第1章 鍵盤の向こうで



放課後の教室には、もう誰もいなかった。
空いた席、黒板に書き残されたチョークの線、静まり返った空気。
そのなかで、月島澪はひとり、ノートに音符を書き込んでいた。

ペンの先で、そっと音を置く。
小さな五線譜に浮かぶのは、自分の中だけで鳴っているメロディ。
誰にも聴かせるつもりはなかった。聴かせられる自信も、なかった。

――“もう音楽は、弾かない”

そう決めたのは三年前。兄が事故で亡くなった日だった。
澪にとって、音楽は兄とつながる唯一のものだった。
けれど、その音が胸を締めつけるようになってから、鍵盤にも触れられなくなった。

それでも――
ふとした瞬間に、音は勝手に浮かんでくる。
駅のホームで聴いたギター、誰かの鼻歌、雨音。
それらが澪の奥に眠るものを、そっと呼び起こす。

(なんで今さら……)

ノートを閉じようとしたそのとき、不意に声がした。

「ねえ、君……ピアノ、弾けるよね?」

驚いて振り返ると、教室の入り口に見知らぬ男子が立っていた。
黒髪で、少し鋭い目。でも、不思議と冷たさはなかった。

「え……?」

「昼休み、音楽室で弾いてたでしょ。あれ、君でしょ?」

澪は息をのんだ。

「すごく、綺麗だった。……また聴いてみたいと思った」
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