貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。
第11話 罪の再会 ――神殿、そしてかつての騎士たち
謁見の間――白大理石が敷き詰められた荘厳な広間には、国王と廷臣、そして神殿の高位神官たちが整然と並び、厳粛な空気が張り詰めていた。
天井からは巨大なシャンデリアが光を放ち、壁には歴代王の肖像画が威厳を湛えて並ぶ。
今日この場で行われるはずだったのは――世界を救った英雄、ノワール・ヴァレリアンに対する、正式な叙勲の儀。
だが、その始まりを告げる前に、場の空気は一瞬で凍りついた。
神殿の大主教が列を乱して進み出ると、怒気を孕んだ声をあげた。
「このような者に、国から栄誉を与えるおつもりか、陛下……!これは神の御名を穢す、許されざる暴挙にございます!」
老いた神官の怒声が、白大理石の広間に響き渡る。
その声音には確かな震えがあった。怒りというには熱が足りず、嘆きというには鋭すぎる。
声の主――神殿の大主教の顔には、恐怖と拒絶、そして自壊寸前の信仰心が絡み合った、尋常ならざる表情が浮かんでいた。
その手には、『真銀の聖杯』と言うモノが掲げられていた。
それは神殿における最上位の聖具にして、神の加護の具現とされるもの。
歴代の神殿長が、神託の間で祈りを捧げる際にのみ用いる、聖域の象徴。
精霊銀と天の彫金術で造られた杯は、わずかでも邪念や不浄を帯びた者が手を触れれば、白い閃光とともに拒絶反応を示すとされている。
杯の内底には、神の象徴たる六芒星の紋が刻まれており、これは神の意志が宿る『接点』とされている。
だが今、その聖なる器は、大主教の手の中で――震えていた。
彼はそれを命綱のように抱え、ノワールへ向けて高く掲げる。
その様は、まるで眼前の存在から逃れるために、信仰そのものを盾として振りかざしているようだった。
「この男は、神殿の掟を破り、聖域にて神の声を拒絶し、禁呪を封印のまま破壊した……もはや、これは人ではない。人を装った、異端の器――」
声が震え、喉が乾ききっている。
「……神をも超える、忌まわしき存在なのです!」
その宣言に、広間を包む空気が急激に冷たくなった。
王も廷臣も、誰一人として言葉を挟めず、場にただ沈黙が降りる。
だが、玉座に座す王は、沈黙のまま――視線をわずかに動かした。
それは、明確な意思を持った無言の合図。
視線の先にいたのは、黒衣の勇者――ノワール・ヴァレリアン。
彼は、ゆっくりと歩みを進めた。
その歩みは、まるで重力の法則から逸脱しているかのように音もなく、白大理石の上を滑るように進んでゆく。
だが、不思議なことに、彼の歩くたびに空気が微かに振動するように感じられた。
存在感そのものが、場の空気を支配していた。
仮面の下――その赤い瞳が、大主教をじっと見据える。
その目に怒りはなく、憐れみもなく、ただ空虚な静寂が宿っていた。
「……神に異を唱える者にこそ、天の裁きを!」
大主教が叫ぶ。
震える手で聖杯を掲げ、その器をノワールへ突きつけるように持ち上げた。
「この聖具は、神の意志を映す真なる杯。神の加護を受けぬ者が触れれば、神罰が下る。いま、ここにて明らかにせよ……貴様が『神殺し』であるという事実を!」
ノワールは、何も言わなかった。
ただ一歩、静かに前へ出る。
そして、右手をゆるやかに上げる。
その動きはあまりにも滑らかで、まるで時の流れから切り取られたかのようだった。
杯に触れはしない。
けれど、その指先が、空気を撫でるように聖杯のすぐ上に伸ばされる。
――瞬間。
カンッ……ン!
まるで深く澄んだ金属の弾けるような音が、広間に響いた。
次の瞬間、聖杯の中心に、淡い光を伴う細い亀裂が走る。
始まりは一点。
だがその亀裂は、まるで意志を持っているかのように杯全体へと瞬く間に広がり、蜘蛛の巣状に光の線が走った。
「……っ……!? やめ……や、やめろ……!!」
大主教が悲鳴をあげる。
だが遅く――砕けおちた。
真銀の聖杯は音もなく弾け飛び、銀の欠片が宙を舞った。
細かく砕かれた破片が月光を反射し、まるで祈りの結晶が崩れ落ちていくかのように――静かに地に落ちた。
神の権威の象徴が、いとも容易く、音もなく――砕かれた。
「……ば……かな……。神の……加護が……」
ひざから崩れ落ちた大主教は、呆然と砕け散った杯を見つめていた。
その目に宿るのは、絶望と喪失。そして、信じてきたものを一瞬で失った者に特有の――信仰の死。
その場にいたすべての神官たちも、顔を蒼白に染め、言葉を失っていた。
神の威光が、否定されたのだ。目の前で、物理的に、完全に。
ノワールは、砕けた破片を見下ろしたまま、ただ静かに言葉を落とした。
「……神が俺を拒絶できなかった」
その声には、怒りも、嘲りもなかった。
ただ、事実を語るような、無機質な静けさがあった。
誰もが、言い返せなかった。
そしてその瞬間――広間にいた全員が、初めて思い知った。
この男は、『神』すらも超えてしまう存在だと。
そして同時に、己たちの信じてきたものの脆さと限界が、ただの人間の手によって――あまりにも簡単に壊されたという、冷厳な現実を。
「――お前たちの『神』が、僕に届かなかった。それだけのことだ」
その声に、怒気も高揚もない。
ただ淡々と、世界の理を語るように。
「俺を拒むということは、お前たちの信仰に『穴』があるということだ。だから俺は、それを『塞いだ』。ただそれだけだ」
静かに、謁見の間が震えた。
その言葉に、誰ひとり反論できる者はいなかった。
――神を超えた者が、今、目の前に立っている。
そして数刻後。
謁見式は予定通り執り行われた。
だが、広間を満たす空気は、先ほどまでの緊張とは異なる――沈黙に満ちた、言葉にできない『何か』に包まれていた。
玉座の前に進み出たノワールの前で、ある男の背筋がわずかに震える。
元・騎士団副団長、レオナルド卿。
そしてその隣、かつて王立騎士団の中でも特に高慢で知られた若き騎士――サイラス・クロード。
十年前、ふたりはそろって一人の少年を嘲笑っていた。魔力を持たぬ平民の少年。貴族の血筋でもなく、剣の才も魔術の才能も凡庸と断じられた、ひとりの『失敗作』。
――ノワール・ヴァレリアン。
その男が、今、謁見の間の中心に立っている。
堂々と、しかし音もなく歩むその姿は、かつて泥にまみれていた少年の影を、どこにも残していない。
仮面に隠された顔。仄赤く光る眼差し。
世界を超えて戻ってきた者だけが持つ、常識を拒絶する静けさ。
誰もが見下していたその存在は、いまや『神殺し』とさえ囁かれる、異端の英雄となっていた。
レオナルド卿は、ひと目で悟った。
この男は、過去を見ていない。
自分を見てもいない。
まるで、視界にすら値しないものとして扱われている――それが、恐怖だった。
「……っ……」
喉が焼けるように乾き、唇が強張る。背筋を冷や汗が伝い、膝が自然とわずかに震える。
それでもレオナルドは、必死に自分を保とうとした。
(なぜ……どうして、あのとき……見抜けなかった……あの少年の中に、これほどの力が眠っていたのに……なぜ、泥に沈めてしまった……?)
脳裏に蘇るのは、十年前の訓練場。
誰にも褒められず、ただ愚直に剣を振るい続けていた、泥だらけの少年の背中――あの背を、真っ先に笑い飛ばしたのは、自分だった。
その報いが、今、訪れている。
そしてその隣、サイラス・クロードは――レオナルドとはまったく別の色の“震え”を噛みしめていた。
カローラの護衛を受け持った時に再度対峙した時、すぐに理解した――手を出してしまえば、殺されると。
若く傲慢だった貴族の騎士――かつて『平民風情が騎士を名乗るとは』と、口先でノワールを蔑み続けた男。
だが今、その唇は一言も発せず、ただ硬直している。
目は見開かれ、額には玉の汗。視線はノワールの仮面に向けられたまま、逸らすこともできずにいた。
(……馬鹿な。ありえない……奴は、ただの劣等生だったはずだ貴族の学問も、神の恩寵も与えられなかった……ただの、出来損ないのはずだったのに……)
彼の思考は、今もなお『過去』にすがっている。
レオナルドのように、自らの罪を見つめることはできなかった。
けれど、心だけは、わかっていた。
目の前に立つこの男の存在が、自分のすべてを超えているということを。
声をかける勇気などない。
名を呼ぶことすらできない。
ノワールは、一度もサイラスを見ていない。
レオナルドと同じく、その存在を意識する価値すらないものとして扱っている。
それが、サイラスにとってはなによりも屈辱だった。
(認めろ……認めるしかない。あの男は、俺たちの誰よりも、高みに立っている)
過去の傲慢、無知、嘲り。そのすべてが今、自分自身に牙を剥いている。
その男は、ただの過去の復讐者ではない。
この世界そのものに、問いを突きつける存在――『秩序を壊す者』なのだ。
そのことを、謁見の間に集う全員が理解し始めていた。
勇者、ノワール・ヴァレリアン。
彼は神を超え、王を沈黙させ、未だ『望む褒賞』を口にしていない。
その一点だけが、全員の胸に異様な緊張を残していた。
――とくに、エヴァレット侯爵にとっては。
ノワールの瞳がカローラを捉えた、その一瞬。
侯爵の心臓が、音を立てて凍りついたのを、自身でもはっきりと感じた。
(まさか……まさか、彼が『望むもの』が……)
それは『報酬』ではなかった。
それは、十年の血と泥の中で醸成された、静かで不可避な『報復』。
そしてその刃は、国でも信仰でもない――侯爵自身の最も大切なものを、狙っている。
もはや誰にも止められない。
ノワールの執念は、この世界の秩序を書き換える力を持っていたのである。
天井からは巨大なシャンデリアが光を放ち、壁には歴代王の肖像画が威厳を湛えて並ぶ。
今日この場で行われるはずだったのは――世界を救った英雄、ノワール・ヴァレリアンに対する、正式な叙勲の儀。
だが、その始まりを告げる前に、場の空気は一瞬で凍りついた。
神殿の大主教が列を乱して進み出ると、怒気を孕んだ声をあげた。
「このような者に、国から栄誉を与えるおつもりか、陛下……!これは神の御名を穢す、許されざる暴挙にございます!」
老いた神官の怒声が、白大理石の広間に響き渡る。
その声音には確かな震えがあった。怒りというには熱が足りず、嘆きというには鋭すぎる。
声の主――神殿の大主教の顔には、恐怖と拒絶、そして自壊寸前の信仰心が絡み合った、尋常ならざる表情が浮かんでいた。
その手には、『真銀の聖杯』と言うモノが掲げられていた。
それは神殿における最上位の聖具にして、神の加護の具現とされるもの。
歴代の神殿長が、神託の間で祈りを捧げる際にのみ用いる、聖域の象徴。
精霊銀と天の彫金術で造られた杯は、わずかでも邪念や不浄を帯びた者が手を触れれば、白い閃光とともに拒絶反応を示すとされている。
杯の内底には、神の象徴たる六芒星の紋が刻まれており、これは神の意志が宿る『接点』とされている。
だが今、その聖なる器は、大主教の手の中で――震えていた。
彼はそれを命綱のように抱え、ノワールへ向けて高く掲げる。
その様は、まるで眼前の存在から逃れるために、信仰そのものを盾として振りかざしているようだった。
「この男は、神殿の掟を破り、聖域にて神の声を拒絶し、禁呪を封印のまま破壊した……もはや、これは人ではない。人を装った、異端の器――」
声が震え、喉が乾ききっている。
「……神をも超える、忌まわしき存在なのです!」
その宣言に、広間を包む空気が急激に冷たくなった。
王も廷臣も、誰一人として言葉を挟めず、場にただ沈黙が降りる。
だが、玉座に座す王は、沈黙のまま――視線をわずかに動かした。
それは、明確な意思を持った無言の合図。
視線の先にいたのは、黒衣の勇者――ノワール・ヴァレリアン。
彼は、ゆっくりと歩みを進めた。
その歩みは、まるで重力の法則から逸脱しているかのように音もなく、白大理石の上を滑るように進んでゆく。
だが、不思議なことに、彼の歩くたびに空気が微かに振動するように感じられた。
存在感そのものが、場の空気を支配していた。
仮面の下――その赤い瞳が、大主教をじっと見据える。
その目に怒りはなく、憐れみもなく、ただ空虚な静寂が宿っていた。
「……神に異を唱える者にこそ、天の裁きを!」
大主教が叫ぶ。
震える手で聖杯を掲げ、その器をノワールへ突きつけるように持ち上げた。
「この聖具は、神の意志を映す真なる杯。神の加護を受けぬ者が触れれば、神罰が下る。いま、ここにて明らかにせよ……貴様が『神殺し』であるという事実を!」
ノワールは、何も言わなかった。
ただ一歩、静かに前へ出る。
そして、右手をゆるやかに上げる。
その動きはあまりにも滑らかで、まるで時の流れから切り取られたかのようだった。
杯に触れはしない。
けれど、その指先が、空気を撫でるように聖杯のすぐ上に伸ばされる。
――瞬間。
カンッ……ン!
まるで深く澄んだ金属の弾けるような音が、広間に響いた。
次の瞬間、聖杯の中心に、淡い光を伴う細い亀裂が走る。
始まりは一点。
だがその亀裂は、まるで意志を持っているかのように杯全体へと瞬く間に広がり、蜘蛛の巣状に光の線が走った。
「……っ……!? やめ……や、やめろ……!!」
大主教が悲鳴をあげる。
だが遅く――砕けおちた。
真銀の聖杯は音もなく弾け飛び、銀の欠片が宙を舞った。
細かく砕かれた破片が月光を反射し、まるで祈りの結晶が崩れ落ちていくかのように――静かに地に落ちた。
神の権威の象徴が、いとも容易く、音もなく――砕かれた。
「……ば……かな……。神の……加護が……」
ひざから崩れ落ちた大主教は、呆然と砕け散った杯を見つめていた。
その目に宿るのは、絶望と喪失。そして、信じてきたものを一瞬で失った者に特有の――信仰の死。
その場にいたすべての神官たちも、顔を蒼白に染め、言葉を失っていた。
神の威光が、否定されたのだ。目の前で、物理的に、完全に。
ノワールは、砕けた破片を見下ろしたまま、ただ静かに言葉を落とした。
「……神が俺を拒絶できなかった」
その声には、怒りも、嘲りもなかった。
ただ、事実を語るような、無機質な静けさがあった。
誰もが、言い返せなかった。
そしてその瞬間――広間にいた全員が、初めて思い知った。
この男は、『神』すらも超えてしまう存在だと。
そして同時に、己たちの信じてきたものの脆さと限界が、ただの人間の手によって――あまりにも簡単に壊されたという、冷厳な現実を。
「――お前たちの『神』が、僕に届かなかった。それだけのことだ」
その声に、怒気も高揚もない。
ただ淡々と、世界の理を語るように。
「俺を拒むということは、お前たちの信仰に『穴』があるということだ。だから俺は、それを『塞いだ』。ただそれだけだ」
静かに、謁見の間が震えた。
その言葉に、誰ひとり反論できる者はいなかった。
――神を超えた者が、今、目の前に立っている。
そして数刻後。
謁見式は予定通り執り行われた。
だが、広間を満たす空気は、先ほどまでの緊張とは異なる――沈黙に満ちた、言葉にできない『何か』に包まれていた。
玉座の前に進み出たノワールの前で、ある男の背筋がわずかに震える。
元・騎士団副団長、レオナルド卿。
そしてその隣、かつて王立騎士団の中でも特に高慢で知られた若き騎士――サイラス・クロード。
十年前、ふたりはそろって一人の少年を嘲笑っていた。魔力を持たぬ平民の少年。貴族の血筋でもなく、剣の才も魔術の才能も凡庸と断じられた、ひとりの『失敗作』。
――ノワール・ヴァレリアン。
その男が、今、謁見の間の中心に立っている。
堂々と、しかし音もなく歩むその姿は、かつて泥にまみれていた少年の影を、どこにも残していない。
仮面に隠された顔。仄赤く光る眼差し。
世界を超えて戻ってきた者だけが持つ、常識を拒絶する静けさ。
誰もが見下していたその存在は、いまや『神殺し』とさえ囁かれる、異端の英雄となっていた。
レオナルド卿は、ひと目で悟った。
この男は、過去を見ていない。
自分を見てもいない。
まるで、視界にすら値しないものとして扱われている――それが、恐怖だった。
「……っ……」
喉が焼けるように乾き、唇が強張る。背筋を冷や汗が伝い、膝が自然とわずかに震える。
それでもレオナルドは、必死に自分を保とうとした。
(なぜ……どうして、あのとき……見抜けなかった……あの少年の中に、これほどの力が眠っていたのに……なぜ、泥に沈めてしまった……?)
脳裏に蘇るのは、十年前の訓練場。
誰にも褒められず、ただ愚直に剣を振るい続けていた、泥だらけの少年の背中――あの背を、真っ先に笑い飛ばしたのは、自分だった。
その報いが、今、訪れている。
そしてその隣、サイラス・クロードは――レオナルドとはまったく別の色の“震え”を噛みしめていた。
カローラの護衛を受け持った時に再度対峙した時、すぐに理解した――手を出してしまえば、殺されると。
若く傲慢だった貴族の騎士――かつて『平民風情が騎士を名乗るとは』と、口先でノワールを蔑み続けた男。
だが今、その唇は一言も発せず、ただ硬直している。
目は見開かれ、額には玉の汗。視線はノワールの仮面に向けられたまま、逸らすこともできずにいた。
(……馬鹿な。ありえない……奴は、ただの劣等生だったはずだ貴族の学問も、神の恩寵も与えられなかった……ただの、出来損ないのはずだったのに……)
彼の思考は、今もなお『過去』にすがっている。
レオナルドのように、自らの罪を見つめることはできなかった。
けれど、心だけは、わかっていた。
目の前に立つこの男の存在が、自分のすべてを超えているということを。
声をかける勇気などない。
名を呼ぶことすらできない。
ノワールは、一度もサイラスを見ていない。
レオナルドと同じく、その存在を意識する価値すらないものとして扱っている。
それが、サイラスにとってはなによりも屈辱だった。
(認めろ……認めるしかない。あの男は、俺たちの誰よりも、高みに立っている)
過去の傲慢、無知、嘲り。そのすべてが今、自分自身に牙を剥いている。
その男は、ただの過去の復讐者ではない。
この世界そのものに、問いを突きつける存在――『秩序を壊す者』なのだ。
そのことを、謁見の間に集う全員が理解し始めていた。
勇者、ノワール・ヴァレリアン。
彼は神を超え、王を沈黙させ、未だ『望む褒賞』を口にしていない。
その一点だけが、全員の胸に異様な緊張を残していた。
――とくに、エヴァレット侯爵にとっては。
ノワールの瞳がカローラを捉えた、その一瞬。
侯爵の心臓が、音を立てて凍りついたのを、自身でもはっきりと感じた。
(まさか……まさか、彼が『望むもの』が……)
それは『報酬』ではなかった。
それは、十年の血と泥の中で醸成された、静かで不可避な『報復』。
そしてその刃は、国でも信仰でもない――侯爵自身の最も大切なものを、狙っている。
もはや誰にも止められない。
ノワールの執念は、この世界の秩序を書き換える力を持っていたのである。