貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第12話 侯爵家、崩れる ――父の失墜

 謁見の間には、張り詰めた糸が今にも千切れそうな、極限まで引き絞られたような静寂が流れている。
 誰もが息を潜め、次に発せられる言葉を待っているかのように。
 王が玉座から立ち上がり、黒衣の男に問いを投げかけた。
 その声は、広間に荘厳に響き渡る。

「勇者ノワール・ヴァレリアン。汝はこの国と世界を救った功により、国王たる我より、望む褒美を一つ得る権利を持つ──何を望む?この国の富も、名誉も、すべては汝の意のままだ」

 その言葉を受け、ノワールはひとつだけ息を吐いた。
 その微かな吐息すら、広間に漂う緊張を一層高める。
 仮面の奥から覗く赤い瞳が、まっすぐに一点を見据える。
 その視線は、周囲の誰もを顧みることなく、ただ一人の女性へと向けられていた。

 ──カローラ・エヴァレット。

 視線を受けた瞬間、カローラの指先がかすかに震える。
 背筋に、氷の粒が滑り落ちるような感覚が走った。
 来るべき『時』が、ついに訪れたことを、彼女は悟る。
 ノワールは、ゆっくりと口を開いた。
 その声は、静謐な広間に、底冷えするように響き渡る。

「……彼女を、私の傍に。この手の中に」

 ざわめきが、場を駆けた。
 それは、水面を揺らす波紋のように、瞬く間に広間全体へと広がる。
 だがそれは声にならぬ震えの連鎖──驚愕と、理解を拒もうとする感情、しかし誰もが心のどこかで予感していた感覚だった。

 ただ一人、声を上げたのは──侯爵、アドルフ・エヴァレット。

 カローラの父であり、十年前、ノワールとの婚約を破棄させ、彼を奈落へと突き落とした張本人。

「ふざけるなッ! 聞き捨てならん!娘は侯爵家の誇りだ!貴様のような、どこの馬の骨とも知れぬ──平民崩れが、『褒美』として手にするなどあり得ん!王よ、この男の狼藉をお許しになるおつもりか!」

 怒声が玉座の間に響く。
 その声には、貴族としての傲慢さと、隠しきれない焦燥が入り混じっていた。
 廷臣たちは顔を伏せ、王は無言のまま腕を組む。
 その表情からは、何ひとつ読み取れない。
 だが──ノワールは一歩も動かない。
 その場に釘付けにされたように、ただ静かに立っている。
 仮面越しの瞳をアドルフに向け、黙して語らず、ただ見つめた。
 しかし、その視線はあまりに雄弁だった。

 次の瞬間――アドルフの背筋に、氷の刃が突き刺さる。

 全身の血が凍りついたかのような錯覚。
 言葉が消え、口は開かず、喉が張り付き、呼吸すらままならない。
 ノワールの瞳に怒りはなかった。
 そこに憎悪も、侮蔑も、哀れみすらなかった。
 ただ、完全な『無関心』──まるで彼の存在そのものが、ノワールの中では認識されていないかのような、絶対的な静寂。
 侯爵という身分も、父親としての立場も、過去の権威も──すべてが、その視線の前では『塵』ほどの価値も持たなかった。

 その圧に、アドルフの膝がわずかに揺れる。
 砕けたのはプライドだけではない。
 彼の肉体までもが、恐怖に支配され始めていた。
 するとそれを見ていた王が、ついに口を開いた。
 その声は、場を切り裂くように冷静だった。

「……アドルフ・エヴァレット侯爵」

 硬く、静かな声が響く。
 王としての揺るぎない覚悟が、そこにあった。

「汝の主張は、貴族としての誇りからくるものであろう。だが、王としての我が判断は、この場にて告げる。二度と覆ることはない」

 廷臣が一歩進み、王命の記された羊皮紙を差し出す。

「アドルフ・エヴァレット侯爵は、十年前に“勇者候補ノワール・ヴァレリアン”を不当な評価により断罪し、結果として国益を損ねる重大な過誤を犯した。よって、本日をもって爵位を停止し、すべての権限を剥奪する。即刻、城下にて謹慎を命じる」
「は……」

 広間に、重く沈んだ沈黙が降りた。
 それは聖杯が砕ける音すら凌ぐ、魂を押し潰すような圧だった。
 アドルフの顔が青ざめる。
 言葉を発しようとするが、もう声は出ない。
 彼の言葉も誇りも──全てが奪われた。
 それを奪ったのは、ノワールの圧でも王の命でもない――事実だった。
 彼自身が十年前に下した決断が、今、回帰してきただけのこと。
 ノワールという『芽』を自ら摘み取った結果が、巨大な樹となり、彼自身を根から引き抜こうとしている。
 それは静かに、完璧に実行された報復だった。

 王は話を続ける。
 その視線は、カローラへと向けられていた。

「……カローラ嬢はすでに成人しており、侯爵家の保護下にはない。法的には、自身の意思で進む道を選ぶ自由がある。『褒美』という言葉に違和感はあるが、勇者の願いである以上、我はこれを阻まぬ……それが、王国の存続のために唯一の道であるならば」

 国王の宣言――それは、国家が『カローラを託す』という、明確な意思の証だった。
 そしてそれは同時に、カローラがこの国の『人質』となった瞬間でもあった。

 広間の片隅で、カローラは静かに立ち上がった。
 その表情はほとんど感情を映さない。
 だが、その瞳の奥には、確かな光が宿っていた。
 誰とも目を合わさず、彼女は壇上の中央へ歩を進める。
 一歩ごとに、過去との決別と、新たな運命への誓いを刻むように。
 そして、父の前でぴたりと足を止めた。
 二人の間に横たわるのは、十年の断絶と、決定的に引き裂かれる絆。
 怒りも、憎しみも、もはやそこにはない。
 流す涙も、とっくの昔に枯れていた。
 彼女はただ、一言だけ呟いた。
 低く、静かに。しかし確かな決意を込めて。

(……さようなら、父様)
「……もう、あなたの娘ではありません」

 その背で揺れる銀の髪が、父との繋がりを切り捨てる。
 それはまるで、過去そのものを断ち切る刃のように。
 振り返ることなく、カローラはノワールのもとへと歩を進めた。
 その足取りはまっすぐで、わずかに哀しみを帯びていた。

 その瞬間――エヴァレット侯爵家は、音もなく崩壊した。

 その栄光は、たった一人の勇者の静かな報復によって、完全に消え去ったのだった。
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