貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第14話 選ばれた未来、あるいは断ち切る覚悟

 二人が昔、出会っていた庭に淡い朝の光が差し込んでいた。
 夜露に濡れた白い花々は、細かな水珠を纏いながら、陽を受けて優しく煌めいている。静かに揺れる花弁のひとつひとつが、まるで今この瞬間を祝福しているかのようだった。
 白い花が咲き連なる小道。
 その先に、二人分の影が寄り添うように伸びていた。
 その影は、時を越えて重なり、ひとつの形を描き出していた――あたかも、ようやく『交わる運命』の輪郭をなぞるように。
 カローラは、何も言わず立ち尽くしていた。
 胸の奥に浮かび上がる数えきれない感情のひとつひとつを、言葉にする術を持たないまま、その沈黙に閉じ込めていたのである。
 隣に佇むノワール――漆黒の衣は朝露を吸い、陽光の中でなお闇のような気配を纏っていた。
 だがその存在は、不思議と風景から浮くことなく、むしろこの庭に帰ってきた者のように馴染んでいた。

 彼は何も言わなかった。
 視線も、声も向けず、ただそこに在った。
 言葉を促すような空気はどこにもない。ただ、そっと息を潜めるように立ち尽くすその姿が――まるでカローラの言葉を待っているかのように。

(……ノワール)

 その無言の優しさが、かえってカローラの心を押し上げた。
 震えるような沈黙のなかで、彼女の口が自然と開かれた。

 「……ねぇ、ノワール」

 その声は、薄明の風に乗って庭に溶けていく。
 かつての怯えた声ではない。恐れでも、義務でもない――自分の意思で紡ぐ、まっすぐな響きだった。
 ノワールが、ゆっくりと振り返る。
 その動作は驚くほど静かで、まるで時の流れすら巻き戻すかのように慎重だった。
 顔を覆う仮面は今やない。
 そこに現れたのは、確かにカローラが知っている、『彼』だった。
 その瞳には、あの日、少年だった彼が宿していた温かな光が揺れていた。

 「……俺、ずっと……」

 言いかけて、ノワールは微かに言葉を呑んだ。そして代わりに、じっと彼女を見つめる。
 その視線は問いかけでも、懇願でもなかった。ただ「君を見ている」という、揺るぎない静けさだった。

 カローラが口を開いた。

「私……ずっと止まってたの。あなたを切り捨てた、あの日から……前に進んだつもりでいたのに、実際はただ――進むふりをしてただけだったの……貴族の娘として、侯爵家の『役目』として……誰かの都合の中でしか生きられなかった。けど、本当はずっと――」

 言葉は、苦しくなるたびに途切れそうになった。
 けれど、それでも彼女は逃げなかった。今この瞬間こそが、十年間閉ざされていた扉の、鍵となると知っていたから。

「……あなたを、忘れたことなんて、一度もなかったの」

 ノワールの瞳が、静かに揺れた。
 それでも彼は何も言わない。代わりに、ゆっくりと手を伸ばす――だが、触れはしなかった。
 触れられる距離にいながら、彼は待っていた。彼女が自らその距離を越えるのを。
 そして、カローラは一歩、踏み出した。
 その歩みに、もう迷いはなかった。
 かつての罪も、後悔も、父の名も、王の命令も――すべてを超えた、彼女自身の意志だった。

「……今度こそ、自分で決めるわ。誰の命令でもない。私の足で、私の意思で、あなたの隣に立ちたい」

 彼女の指が、そっとノワールの手に触れた。
 黒い手袋越しに伝わるその温もりは、冷たくもあり、同時に柔らかかった。
 剣を握り、血に染まってきたその手が、今はたったひとりの想いのために――ただ彼女の手を、優しく包んでいる。
 ノワールは、ゆっくりとその手を握り返す。
 一瞬だけ間を置いたのは、すべてを押しつけないための、最後の優しさだった。

「……君が、俺を選んでくれた……それだけでいい。ずっと……ずっと、それだけを信じてた」

 彼の声はかすれていた。けれど、その一語一語が、十年間の痛みと祈りを丁寧に編んだものだった。
 カローラは、小さく頷くと、そっと言葉を返す。

 「ありがとう……待っていてくれて、私を責めずにいてくれて……こんな私のために、世界を救ってくれて」

 ノワールの唇が、わずかに震えた。

「……君のためにしか、俺は動けなかったから」

 その言葉に、彼のすべてが詰まっていた。
 世界を救ったことすら、彼にとっては『副産物』でしかなかった。
 ただ、彼女のあの日の言葉を――たった一言を守るために、ここまで来たのだ。

 そして――王宮の高きバルコニーからその光景を目にした者たちが、次々に表情を歪ませていく事なんて、知らないまま。
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