貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第13話 変わってしまった、全て

 謁見の儀が終わり、玉座の間を出た後も、ノワールは何一つ言葉を発さなかった。
 彼の漆黒のローブは、まるで周囲の喧騒や人々の視線すらも吸い込むかのように、静かに揺れることもなく垂れ下がっている。
 その背には、感情らしきものは一切、滲んでいなかった。
 護衛の兵たちも、彼に近づくことをためらう。
 ノワールはただ、カローラの横を歩いていた。
 だが二人の間には、見えない壁が確かに存在していた。
 互いの存在を肌で感じながらも、あたかも分厚いガラス越しにしか見られないような、触れられぬ距離感がそこにはあった。
 歩幅を合わせることも、言葉を交わすこともなく――それでも、彼の存在は影のように、常にカローラのすぐ傍に寄り添っていた。

 屋敷に戻ると、カローラはゆっくりと扉を閉めた。
 その音は、まるで外界とのつながりを断ち切るように、心の奥底まで響いた。
 目の前に広がるのは、かつてと変わらぬ豪奢な調度品、柔らかな陽光を受ける窓、そして静寂。

 ――なのに、全てが異なって見えた。

 確かに、物は同じはずなのに。
 けれども、世界はもう、元に戻らない。変わってしまったのだ。
 彼女自身が、変えてしまったのだ。
 父を拒み、侯爵家の名から離れた自分。
 その選択の先にあったのは、自由という名の開放感と、切り捨てた血縁への拭いがたい罪悪感。
 国の未来のために娘を差し出した王。
 その冷徹な判断もまた、胸の奥で鈍く響き続けていた。
 すべての肩書きが消えた今、彼女を縛るものは何もない。
 だがその自由は、無限の空のように広大で、同時に底のない孤独を伴っていた。

 それでも、胸の奥にはひとつ、冷たく重いものが残っていた。
 それが失われた何かへの哀しみなのか、これから始まる『何か』への恐れなのか――カローラ自身にも、判然としなかった。
 ただ、心臓の奥で鈍く脈打ち続けるその感情が、彼女の全身をじわりと締め付けていた。

 気づけば、足は自然とある場所へと向かっていた。
 頭で考えるよりも先に、もっと深い部分――本能のようなものが、彼女の体を動かしていた。

 ──屋敷の裏庭。

 十年前――陽の光が降り注ぐ中、彼と初めて出会い、たどたどしく交わした言葉、そして交わされた、幼くも真っ直ぐな約束。
 彼にとっての『永遠』が始まった場所。
 誰にも告げていないはずなのに、まるで魂の声が呼び合ったかのように、そこにはすでにノワールがいた。
 風に揺れる黒衣が、静かに背中越しにその存在を語っている。
 黒衣の漆黒は、周囲の若草色や花々の中でひときわ異彩を放ち、そこだけ時が止まっているかのような空間を作り出していた。
 まるで、記憶のなかから切り出された一枚の絵。
 あの頃と変わらぬ、孤独で、どこかひたむきな背中。
 その姿は、カローラの胸に甘く、そして苦しいほどの記憶を呼び起こす。
 カローラは、小さく息を吸った。風が頬を撫でる。

「……ノワール。覚えてる? ここに来た日のこと」
「薪を抱えて、泥だらけで……それでも、私に向かって、不器用に……笑ってくれた」

 ノワールは答えなかった。だがその背中に、わずかに風の動きとは違う、静かな呼吸の揺れがあった。
 彼女は続ける。

「『あの木の下に、君を呼んでいい?』って、真っ赤になって言ったの、あなたよ……私、笑ったわ。そんなの、騎士の口説き文句じゃないって……でも」

 声が少し震える。

「でも、嬉しかったの」

 その時、ノワールがようやく言葉を紡いだ。
 振り返らずに、静かに、けれど真っ直ぐな声で。

「……忘れるわけがない。あの日の光も、君の髪の色も、花の香りも。君が僕にかけてくれた……たったひとつの、やさしい言葉も……『あなたも、騎士になれると思う』……あの一言で、僕はこの世界に、初めて居場所をもらえた気がした」

 カローラの胸が、きゅうっと痛んだ。
 あのとき、自分は軽く言ったつもりだった。
 けれど彼にとっては、それが光だったのだ。
 どんな暗闇にも消えなかった、たったひとつの灯火。

「……あなたは、あの日の約束を、まだ信じてるの?『いつか騎士になったら、私を守ってくれる?』……冗談だったのよ、あれ。本当に、冗談のつもりで言ったの……」

 その言葉に、ノワールの背が微かに揺れる。
 だが、彼はゆっくりと振り返り――その瞳で、カローラを見た。
 その目には、怒りも、責める色もなかった。
 ただ、深い深い静けさと、穏やかで澄んだ光があった。
 十年の歳月がすべてを奪い、削ぎ落としてなお残った、一途な想いの結晶のような瞳だった。

「冗談だったかもしれない。でも、俺は……冗談だとは思わなかった……俺のすべては、あの言葉で動き始めたんだ。君が望むなら、俺はいつでも騎士になる。君だけの、たった一人の」

 カローラの唇がかすかに揺れた。
 目元に熱がにじむ。

「……そんなふうに、まだ言ってくれるのね……私、あなたに酷いことばかりしてきたのに。捨てたのに……あなたを」
「うん、覚えてる」

 ノワールは頷いた。
 だが、その声音には怨みも悔しさもなかった。

「でも、捨てられたあとも、君が俺を形作った。剣を握る手も、歩き続ける足も、すべては……君がいたから動いた……だから、今の俺がある。捨てられても、忘れなかった」
「……ねえ、ノワール」

 カローラはそっと、問いかけるように視線を重ねた。

「今でも、私のこと……好き?」

 その問いに、ノワールは一瞬、何か言いかけて――だが言葉にはせず、ただ、そっと微笑んだ。
 不器用で、どこまでもまっすぐで、子どものころに見せてくれたあの笑顔と、何ひとつ変わらない。
 それは、言葉を超えた『答え』だった。

 カローラはその微笑みに、全てを悟る。
 十年の間、彼は誰にも見せなかったであろうその笑顔を、今、自分だけに向けてくれている。
 どんな偉業も、どんな戦いも、この一瞬のためだったのだ。

「……ばか」

 彼女は、涙を浮かべたまま微笑んだ。

「十年もかけて、そんな顔をしに来るなんて……ほんと、ばか」

 ノワールは何も言わず、ただ一歩、彼女の方へ近づいた。
 その微笑みは、彼の狂おしいほどの執念、傷だらけの愛、そして何もかもを失いながらもたった一つ守り続けた『希望』の象徴。
 カローラの胸に、熱が込み上げる。
 涙が、静かに頬を伝う。
 彼は、十年もの間、ただその言葉を信じて生きてきたのだ。
 裏切られても、嘲笑されても、それでもなお――君が言ったから、という理由だけで、闇を超え、神をも斬り、ここまで来た。

 その彼が、静かに、言う。

「君が望むなら、俺は何も奪わない。君から、何一つ。たとえ君が僕を拒んでも……俺は君から奪うことはしない。世界ごと、君に明け渡すだけだ。君が望むなら、この命も、迷いなく捧げよう」

 それは、言葉でありながら、告白ではない――誓いだ。
 十年の血と痛みと孤独を凝縮した、命の叫びだった。

 そして今、選ぶのはカローラなのだ。

 父の命令でも、王の意志でも、誰かの理でもない。
 これは彼女自身の問いに、彼女が出す、答え。
 運命ではない。選択だ。
 心の奥から湧き出す、たった一つの意志。
 カローラはそっと、彼に手を伸ばす。
 白い庭の花が、そよ風に揺れる。
 まるで、二人の未来を祝福するかのように。
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