貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

閑話 旧・騎士団──膝を折るしかない


 かつて〈王国騎士団〉副団長として権威を振るっていたレオナルド卿は、今やその肩書も剥奪され、城の隅に設けられた粗末な仮部屋の隅で、丸まるようにして震えていた。
 その背に羽織っているのは、かつて誇りと共に纏っていた、重厚な銀糸の刺繍が施された騎士服。
 だがそれは、今の彼にはあまりにも不釣り合いな皮一枚の虚栄に過ぎなかった。
 衣の下で晒されているのは、かつて彼が平民を見下したあの眼差しが、今や自身に向けられているという現実だった。
 額から滴り落ちる脂汗は、止まる気配がない。
 口は震え、歯がかちかちと鳴り、息を吸えば、喉がつかえて咳が漏れる。
 まるで寒さでも病でもない、ある一つの『名』が、彼の身体を蝕んでいた。

 ノワール・ヴァレリアン――あの平民崩れの少年だった人物。

 嘗て、彼自身が見下し、足蹴にし、訓練場でお遊びの剣ごっこと嘲った、名もなき存在。
 今や王国が震え、神殿が口を噤み、そして王でさえ「下手に触れることは禁忌」と語る、この国で最も恐れるべき存在となった男。

「十年前……あのとき、私が、あいつの剣を『玩具』だと笑った……彼の動きを『滑稽』と、目もくれず切り捨てた……私が……」

 その呟きは、自らの喉を裂くかのように苦しげだった。
 レオナルドの目は虚ろで、何度も同じ言葉を反芻し、まるで現実から逃れようとするかのようだった。

「騎士団の名を守るためだと……貴族の誇りのためだと……そう言い訳して、あの少年を踏み潰した……だが違う……本当は……自分より強くなりそうな芽に、怯えていただけなんだ!」

 その告白に、隅で座っていたもう一人の男――サイラス・クロードは、深く眉をひそめた。
 彼もまた、かつての騎士団の一員。レオナルドの腹心として、ノワールを軽蔑し、見下し、そして切り捨てた側の人間だ。

「……あの頃、俺たちは『正義』の側にいるつもりだった。貴族の矜持を守るために、不純な存在を排除していると、信じていた……だが、その『正義』は、自分の恐怖を隠すための都合のいい仮面だった」

 サイラスの声には、苦味と、そして明確な敗北が滲んでいた。

 「――まるで、神話の中の怪物だ。あの目。あの威圧。あれはもう、人ではない……俺は見た……ノワールが玉座の間で一歩進んだだけで、空気が軋み、王の口が震えたのを!まるで、あの場の全てが彼の意思で定まっていたかのようだった……」

 レオナルドは、吐き捨てるように呻いた。

 「違う……違う……違う……あれは『変わった』んじゃない……!最初から『そうだった』んだ…… 俺たちが……ただ、認めようとしなかっただけだ!いや、認めたくなかったんだ!自分たちの立場が揺らぐのを、恐れていた……!」

 頭を抱え、床に額をこすりつけ、かつての誇りを削るように何度も何度も呟いた。
 それは懺悔ですらない。
 ただ、徹底的に潰された者だけが発する、自壊の言葉だった。

 「俺は……王国を滅ぼしかけたのだ……彼を切り捨てた、その判断が、たった一つの間違いが……取り返しのつかない代償になった……!」

 サイラスは立ち上がり、ゆっくりとレオナルドの方を見た。
 その目には、もはや『同情』すらなかった。
 あるのは――冷え切った敗北と、己に向けた怒り、そして『当然の報い』という静かな受容。

 「レオナルド……俺たちは、ただ『見る目がなかった』んじゃない……見る努力すら放棄して、自らの醜さを正義にすり替えた。その結果だ。何も言えない……」

 レオナルドの肩がびくりと跳ねた。
 口を開けて反論しようとしたが、言葉は何一つ出てこなかった。
 自分の中にある全ての『正しさ』が、今や全く意味を成していないと――彼の魂が先に理解していたからだ。
 そのとき、廊下の遠くから、兵士の声が聞こえてきた。

 「ノワール・ヴァレリアン様が、謁見を終えられました――すべて、終了しました」

 その言葉を聞いた瞬間、レオナルドの体から力が抜けた。
 床に崩れ落ち、額をつけ、もはや言葉を失った姿は、もはや『元・副団長』などという威厳すら失った、ただの抜け殻のようだった。

 ――この国に生まれ、この国を守るために剣を振るったはずの男は、今、自らが追い出した少年の足元に、跪いていた。
 歴史は彼をこう記すだろう。

 もっとも見る目がなく、もっとも世界を誤った者、と。

 そしてその名は、死後もなお、『愚か者の象徴』として、新しい時代の子供たちの笑い草となるだろう。

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