貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

閑話 侯爵家跡――無言の破滅

 かつて、ここには百年の栄光があった。
 エヴァレット侯爵家──魔導師と軍人を数多輩出し、三代にわたり国政を担った名門。その歴史は、王国の歩みと重なっていた。
 銀の双剣を掲げた家紋は忠誠と権威の象徴として王都の正門を飾り、侯爵家の不動の地位を万人に知らしめていた。
 その紋章が、今では――埃をかぶったまま、屋敷の床に転がっている。
 主室の鏡台の前に、アドルフ・エヴァレットは立ち尽くしていた。
 その姿は、もはや 『侯爵』ではない。威厳も気品も、そこには欠片すら残されていなかった。
 伸び放題の髪、剃り残した髭、やつれた顔。
 あの誇り高かった男の面影は、鏡のどこを探しても見つからない。
 外套は肩から滑り落ちかけていたが、それを直す気力さえない。

 ――まるで、『終わった男』そのものだった。

 彼は、虚ろな目で鏡の中の自分を睨みつける。
 そして、何度目か分からぬ、空虚な問答を始めた。

「なぜだ……なぜ、あの男が……なぜ、私の全てを奪い去った……」

 掠れた声は、呪詛とも懺悔ともつかない、空虚な音として宙に溶けた。

 「貴族とは、血筋と責務を背負う者……教養と伝統を継ぐ者こそが、価値を持つと……信じていた。あのような下賤の者に、何の資格があると……誰もが、そう思っていたはずだ……」

 誰もが、ではない。
 そう思い込んでいたのは、お前だけだ。
 他者の眼差しすら、自らの傲慢で捻じ曲げた。その結果が、このざまなのだ。
 彼は知っていた。
 娘を道具として扱い、家名を守る盾にしようとしたあの日、自らすべてを壊したのだと。
 それでも、口では言い訳を重ねる。
 惨めなプライドの残滓にしがみつきながら。

 ノワール・ヴァレリアン。

 神を斬った『黒衣の勇者』。
 王が讃え、民が畏れ、国が沈黙した男。
 かつてアドルフが無価値な『平民』と見下し、娘との関わりを徹底的に排除しようとした、あの少年が。
 今では、この王国の秩序そのものを塗り替える存在となっていた。
 だが、最も深い刃を突きつけられたのは、力や地位ではなかった。
 娘が、『父を見限った』という事実。

 カローラは、振り返らなかった――ただ前を見据え、ノワールの隣に立ち、静かにその手を取った。

 命令ではなかった。強要でもなかった。
 あれは、父を選ばないという、彼女の自由意志だった。

「……カローラ……なぜだ……なぜ、私を捨てた……」

 声に返事はない。
 返事など、もう誰もくれない。
 この男には、それに値する人間が、もう周囲に誰一人残されていない。
 嘗て娘を『家の誇り』として扱い、意志を奪い、ただ血統の器としてしか見なかった報い。
 彼女の瞳に宿ったのは、家名を離れた者だけが持ち得る、『真の誇り』だった。
 侯爵家の誇りは、もはやこの男にはなかった。
 それは、彼女が選んだ人間としての尊厳の中にだけ、生きていた。
 皮肉にも、彼が最も踏みにじったものこそが、最も強く、そして美しかったのだ。
 家紋は床に転がり、領民は去り、家臣は王命により解任された。
 屋敷の調度品は競売にかけられ、部屋の広さだけが空虚に響く。
 栄光は消えた。名は汚れた。娘は背を向けた。
 何一つ残っていない。
 鏡の中に映る男を、アドルフは見据える。
 そこにあるのは、ただの『敗者』となった男の末路だ。
 地位を失ったわけではない。
 敗北したのだ――価値観に、意志に、そして世界そのものに。
 ノワールは剣を抜く必要すらなかった。
 ただ、彼女に選ばれたという一点だけで、この男を完膚なきまでに叩き潰した。

 ――り高きエヴァレット侯爵は、ただの『空虚な影』となった。

 カローラ、自分の娘――本当は、ただその幸福を祈るべきだった。
 でも、もうその資格すら自分にはない。
 言葉は喉で詰まり、願いは心で凍りついた。
 そして、カーテンの隙間から射し込んだ光が、彼の影を二つに裂いた。
 過去と、現在。傲慢と、崩壊。
 エヴァレット侯爵家は、ここに完全に滅ぶ。
 それは英雄の剣ではなく、愚かな父の手で自ら下された『処刑』だった。
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