こちらヒロイン2人がラスボスの魔王と龍になります。
その名はもう必要ない
目覚めたジーナは状態が安定していることから例の件に関する証言となったが、ほとんど無意味なものであった。
剣を振り降ろしたが謎の衝撃によって気を失い、目覚めたらここであった。これだけである。
その剣が龍に入ったかどうかが不明。ジーナは龍と正面から対峙しており振り降ろしたら顔か首になるために殺傷率が高いのだが、そこも不明。
こうして当事者であるのに当てにならない曖昧な証言な為に、この件に関する戦功者はブリアンにと決定した。
「お前がな、いいや斬ったのは俺だ、とか言ったら争いの元であるし禍の元ともなる。ただでさえ忌まわしい出来事であるのに混乱が起こらぬよう祈っていたが、よくそう証言してくれた。感謝する」
見舞いに来たバルツ将軍も満足そうに言い、また隊員達も皆口々にその件では良かったと安堵していた。
何故喜ぶのか? とジーナは分からなかった。ブリアンが討ったことについて皆は喜びその疑問に拍車をかける。つまり私では駄目だったのか。
「君が討ち、受勲されるべきでしたね」
ただ一人だけルーゲン師は反対の意見を述べた。
「僕の眼があの時に見えていたら違うものとなったでしょう。君が昏睡状態から目覚めたのことは喜ばしいことですが、こっちのこれだけは実に残念です」
ルーゲン師の眼はほぼ視力が戻っておりリハビリの最中にジーナは尋ねた。
「申し訳ありません。そのような目の状態なのに来てしまって」
「とんでもない。僕こそ君と話したいことが沢山ありました。こうしてきてくれて良かったです、ただしもう少し早く来てもらいたかった。あの件の調書を取ってしまう前に僕の元に来れば……」
「私が龍を斬ったということにできたのに、ということでしょうか」
はっきりいいすぎたかなとジーナは思うもルーゲンは困ったように軽く笑った。
「ジーナ君の言い方だと僕が偽証を勧めているように聞こえてしまうね。そうではなくてね、僕と会えば何かを思い出すかもしれないと。君が剣を振り上げて硬直していたときに僕は叫んでそれから君は剣を振り降ろした」
「流れとしてはそうですね。でも私は証言通りに胸に衝撃が来てそれから気を失って」
「その際に僕は音を聞いた。二つの音をね。みんな聞いていると思うが、聞いているとは誰も言わなかった。どうかな、君は思い出せるかな」
音? ジーナは額に指を当てるもすぐに頭を振った。何も思い出せないと。
「剣は龍の首を刎ね最後の力を振り絞った龍による断末魔の一撃が君の胸へと当たった。こうすれば君の昏睡の理由の説明にもなる。ブリアンの一撃も入ったが昏睡状態の短さから彼の攻撃はとどめにはなっていない、と考えるのが妥当だろうが、これは憶測の域を出ないうえに当事者とその周囲のものたちの証言が出揃っている今ではまるで無意味なものだろう。君と僕以外にはね」
もう一度ジーナは剣を振り降ろした際のことを思い出そうとする。だがなにも変わりはない。
「斬ったという可能性は高いでしょうね」
「だが君はその名誉を受ける可能性はなくなった。残されたのは龍殺しの疑惑と被った血に受けた傷と客観的に見て損な役回りを得てしまったわけだ。もう一度報告をしてみる気はないか?」
この人なりの親切なのだろうかとジーナはルーゲンの視線を見返した。美しい両の眼から放たれる鈍色の輝き。濁ったその心。
「僕としては龍は君の手でなければ討てないという思いが強いのだが」
それはそうだろう、だが龍を討つものでなくても討てるという例は単独者でも少数ながらある。それを自分は知っている。
「いいえ必要はありません。斬ったにせよ恩賞など私は求めてはいませんでした。かえってこれでいいです。私は龍を討った、かもしれない。これが全てでしょう」
そう言うとルーゲンの鈍色の光りは治まり深々と頷いた。何かに満足したように見えジーナには不可解だった。
「そういえば証拠といえば剣にはその痕跡は残っていなかったということですか?」
「無いといっていい。斬られた龍はそのまま消滅し何の痕跡もなく消え去ったのだ。肉も血も全て失われた。君にはかなり奇妙に思えるだろうが、これが中央において龍となったものの証だ。先代も先々代も記録に残る限り龍の寿命は長いものの失われる際は静かに消えるのだ。儚いほどにね。今回のような騒々しさの中で失われるのは極めて特異なことであるが」
肉体が失われ記憶も失われる、とジーナは勉強したせいかここの奇妙なルールもようやく呑み込めてきた。
なるほどあの龍たちがこの世界を目指していることも分かる、と。唯一の至高の存在となることを望んでここに。龍という名の神になるために。
「あの、例えば中央に座れなかった龍の場合は、その身を残すということでしょうか」
聞かれたルーゲンの表情は固まり青ざめた。見開かれたことでなお大きさの差がある眼は強調され、そこに壮絶な美しさを感じた。
失言したな、と思うも引っ込みがつかずに息を呑み返事を待つこと数秒、ようやくその瞼が一度瞬いた。
「ああびっくりした。そのような質問を出来るのは世界広しとはいえ君ぐらいだろう。相変わらず僕の想像力を大きく超えさせることを言うが、いや良いのです。痛みさえある刺激ですが、己の思考力の領域を増やしましょう。そうですね……たとえば龍身という状態はまだ不完全なものなのです。つまりは龍身様は厳密には未だに龍ではございません。ですから龍身というお名前があります」
若干早口であるがルーゲンに説明にジーナは頷く。そう、だからこそ今ではないのだと。
「現在龍身様は中央に御向かいです。もちろんこの状態は龍ではなくこの先の予定としては最後の儀式を行い龍と一体化し中央の龍の宮に、そうジーナ君たちが入ったあそこの中央の真ん中に座られた瞬間に、龍身様は龍として完全な存在になられます」
「儀式というものがやはりありますか。なかなか時間がかかりそうですね」
「到着してそのまま儀式には入られないでしょうね。復旧工事やらが多いですし。とはいえ最重要事項ですからもう今から龍の儀式の準備は進められております。あちら側もそのためにソグから多くのものを持ってくるのですからこうして時間がかかるわけですし、しかしなにですかねジーナ君。急にこういうことを聞き始めて。さては君は……」
言いながら覗き込んでくるルーゲンは笑顔であったがその瞳は暗い色をしているとジーナは見た。
「龍の側近に戻りたいという意思がおありとか?」
「そうでしたらルーゲン師はそれに反対しますか?」
ルーゲンは覗き込むのをやめ真正面からジーナを見た。
瞳の色は変わらない、けれどもジーナは視線を外すことなく見て思う、私の瞳の色はいま金色であろうかと?
「こんな伝承があります。龍の血がついた戦士がいましたがそのものは龍に忌まれ追放をされた、と」
ルーゲンの瞳に変化は無かった。そうだとすると自分の瞳にも変化は無かったのだろう、とジーナは不思議と自己について判断した。
「君の身体には龍の血がついているかもしれない」
囁き声であるがはっきりと確かにゆっくりとルーゲンは短く言葉を繋げる。
「龍はそれを、忌むかもしれない」
「けれども血は消滅したと」
反論にルーゲンの眼は光る。
「それは人間には見えないだけということでしょう。龍は人智を超えたものです。見るものや感じるものに人間と違いがあると思うのが自然かと。ましてやその血は龍身様の一族のものです。龍身様がどう思うか、我々には未知数なことです。僧院の上層部ではその議題も取り上げられるかと思われます」
「一種の呪いであるというわけですね」
「そうとも言えましょう」
血は、いくらでもこの身についているとジーナは思った。西の我らの土地で幾度も龍の血に塗れ生きてきた。それどころかあの毒龍の血を身体に浴びた。
もしも龍に鋭い嗅覚があるのなら、神の領域に近い感性があるというのなら、自分の身体についている臭いの正体などとっくに分かっているはずである。
そうであるのにあの人は……ジーナはあの日のヘイムの言葉を口の中で唱えてから、言った。
「忌むと言われましたが、ヘイム様はそのようなことは決して言われないかと私は思います」
すると間が生まれルーゲンの眼に動揺が走り、首が後退した。眼が左右に動き、唇に指先をあて、呟いた。
「……誰?」
「えっ?」
説明不要なほど自明なことであるのにとジーナは絶句するとルーゲンの混乱はさらに拍車がかかり、指先は鼻頭に移り口は閉ざされ沈黙を以て返事とする。
その沈黙はそのままこう告げる。それは誰であるのかと? そういえばこの人は初めから……だからジーナは初めてルーゲンに説明をした。
「ヘイム様とは龍となるものですけれど……」
伝えるとまた少し間が生まれるもパッとルーゲンの顔に輝きが広がった。
「あっ! ああそうかそうかそうでしたね。龍身様の前名は久しく聞いていませんでして、困惑してしまい申し訳ない。てっきり僕の知らない龍の側近の一人かと思って一生懸命考えてしまって……あはははっこれは失態で」
これほど頭脳明晰な人であるのにそれを前名としてあつかい記憶から忘却をしているとは、とジーナの心は冷たくなった。もっと聞かなくては。
「あの、ルーゲン師はヘイム様とは……お呼びにならないのでしょうか?」
「その名の必要はもうありませんからね」
こともなげ言うルーゲンの姿が一瞬で遥か後方に移動したようにジーナには見え声も遠くから聞こえた。
「龍になるということは、そういうことです。驚きでしょうがこれは何も僕だけのことではなく皆が皆そうです。そもそもその名で呼んでいるのはごく限られた……君とシオン嬢ぐらいではないのですかね」
「……ハイネも」
忘れてしまいますよ……あの日の言葉が頭に過るもジーナは敢えてこう返した。
「ああ彼女の場合はシオン嬢と君の影響でそう呼んでいるのでしょう。僕との会話や他の時では龍身様の呼び名で統一はされていると思いますね」
「……どうして?」
「それはやはり君が不信仰者だからとしか言えません、ねぇジーナ君」
呼ぶルーゲンの声は甘く優しくハイネとも誰とも違う色をしていた。
だけどもいまは美しい色に薄汚れた黒点がひとつあるような感じをジーナは抱いた。
「それ以外にも龍の側近というのは君には向いていないと思うのは、そこです。これからあの御方は龍となられる。準備期間を終え仕上げに入り龍となる、何もかもがそこを前提として動き絶対に揺るぎません」
ルーゲンは口を閉じ三度瞬いた。それから合図のように問うた。
「君はそれでも側近になることを望みますか?」
反対であったのだろうがジーナは瞬かずに答えた。
「はい。思うところがありますので。今日のところはこれで失礼します。ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。迷惑だなんて君と話すのがすごく楽しいですから遠慮なさらずに来て下さい。分かりますよね? 僕は君と話したがっていることを」
そこには疑いは無かった。この人は私と会いたがり語りたがっている。
自分以外にこういうことをするようにもみえないぐらいに。
「分かります。あなたはとても楽しんでいらっしゃると」
「ええそうです。君はこの世界の理の外にいるものだ。僕の眼をいつも覚まさせてくれる。君の視線を借りて僕は龍の世界を外から見られる。そうすることによってより強く、新しい世界を作れるはずだからね。それは龍を導くものとして必要なものだ。そう思いませんか?」
ルーゲンはいつものように微笑むがジーナはそれをとても歪んでいると見た。そしてそう思うもののジーナは首を縦にはふらなかった。
剣を振り降ろしたが謎の衝撃によって気を失い、目覚めたらここであった。これだけである。
その剣が龍に入ったかどうかが不明。ジーナは龍と正面から対峙しており振り降ろしたら顔か首になるために殺傷率が高いのだが、そこも不明。
こうして当事者であるのに当てにならない曖昧な証言な為に、この件に関する戦功者はブリアンにと決定した。
「お前がな、いいや斬ったのは俺だ、とか言ったら争いの元であるし禍の元ともなる。ただでさえ忌まわしい出来事であるのに混乱が起こらぬよう祈っていたが、よくそう証言してくれた。感謝する」
見舞いに来たバルツ将軍も満足そうに言い、また隊員達も皆口々にその件では良かったと安堵していた。
何故喜ぶのか? とジーナは分からなかった。ブリアンが討ったことについて皆は喜びその疑問に拍車をかける。つまり私では駄目だったのか。
「君が討ち、受勲されるべきでしたね」
ただ一人だけルーゲン師は反対の意見を述べた。
「僕の眼があの時に見えていたら違うものとなったでしょう。君が昏睡状態から目覚めたのことは喜ばしいことですが、こっちのこれだけは実に残念です」
ルーゲン師の眼はほぼ視力が戻っておりリハビリの最中にジーナは尋ねた。
「申し訳ありません。そのような目の状態なのに来てしまって」
「とんでもない。僕こそ君と話したいことが沢山ありました。こうしてきてくれて良かったです、ただしもう少し早く来てもらいたかった。あの件の調書を取ってしまう前に僕の元に来れば……」
「私が龍を斬ったということにできたのに、ということでしょうか」
はっきりいいすぎたかなとジーナは思うもルーゲンは困ったように軽く笑った。
「ジーナ君の言い方だと僕が偽証を勧めているように聞こえてしまうね。そうではなくてね、僕と会えば何かを思い出すかもしれないと。君が剣を振り上げて硬直していたときに僕は叫んでそれから君は剣を振り降ろした」
「流れとしてはそうですね。でも私は証言通りに胸に衝撃が来てそれから気を失って」
「その際に僕は音を聞いた。二つの音をね。みんな聞いていると思うが、聞いているとは誰も言わなかった。どうかな、君は思い出せるかな」
音? ジーナは額に指を当てるもすぐに頭を振った。何も思い出せないと。
「剣は龍の首を刎ね最後の力を振り絞った龍による断末魔の一撃が君の胸へと当たった。こうすれば君の昏睡の理由の説明にもなる。ブリアンの一撃も入ったが昏睡状態の短さから彼の攻撃はとどめにはなっていない、と考えるのが妥当だろうが、これは憶測の域を出ないうえに当事者とその周囲のものたちの証言が出揃っている今ではまるで無意味なものだろう。君と僕以外にはね」
もう一度ジーナは剣を振り降ろした際のことを思い出そうとする。だがなにも変わりはない。
「斬ったという可能性は高いでしょうね」
「だが君はその名誉を受ける可能性はなくなった。残されたのは龍殺しの疑惑と被った血に受けた傷と客観的に見て損な役回りを得てしまったわけだ。もう一度報告をしてみる気はないか?」
この人なりの親切なのだろうかとジーナはルーゲンの視線を見返した。美しい両の眼から放たれる鈍色の輝き。濁ったその心。
「僕としては龍は君の手でなければ討てないという思いが強いのだが」
それはそうだろう、だが龍を討つものでなくても討てるという例は単独者でも少数ながらある。それを自分は知っている。
「いいえ必要はありません。斬ったにせよ恩賞など私は求めてはいませんでした。かえってこれでいいです。私は龍を討った、かもしれない。これが全てでしょう」
そう言うとルーゲンの鈍色の光りは治まり深々と頷いた。何かに満足したように見えジーナには不可解だった。
「そういえば証拠といえば剣にはその痕跡は残っていなかったということですか?」
「無いといっていい。斬られた龍はそのまま消滅し何の痕跡もなく消え去ったのだ。肉も血も全て失われた。君にはかなり奇妙に思えるだろうが、これが中央において龍となったものの証だ。先代も先々代も記録に残る限り龍の寿命は長いものの失われる際は静かに消えるのだ。儚いほどにね。今回のような騒々しさの中で失われるのは極めて特異なことであるが」
肉体が失われ記憶も失われる、とジーナは勉強したせいかここの奇妙なルールもようやく呑み込めてきた。
なるほどあの龍たちがこの世界を目指していることも分かる、と。唯一の至高の存在となることを望んでここに。龍という名の神になるために。
「あの、例えば中央に座れなかった龍の場合は、その身を残すということでしょうか」
聞かれたルーゲンの表情は固まり青ざめた。見開かれたことでなお大きさの差がある眼は強調され、そこに壮絶な美しさを感じた。
失言したな、と思うも引っ込みがつかずに息を呑み返事を待つこと数秒、ようやくその瞼が一度瞬いた。
「ああびっくりした。そのような質問を出来るのは世界広しとはいえ君ぐらいだろう。相変わらず僕の想像力を大きく超えさせることを言うが、いや良いのです。痛みさえある刺激ですが、己の思考力の領域を増やしましょう。そうですね……たとえば龍身という状態はまだ不完全なものなのです。つまりは龍身様は厳密には未だに龍ではございません。ですから龍身というお名前があります」
若干早口であるがルーゲンに説明にジーナは頷く。そう、だからこそ今ではないのだと。
「現在龍身様は中央に御向かいです。もちろんこの状態は龍ではなくこの先の予定としては最後の儀式を行い龍と一体化し中央の龍の宮に、そうジーナ君たちが入ったあそこの中央の真ん中に座られた瞬間に、龍身様は龍として完全な存在になられます」
「儀式というものがやはりありますか。なかなか時間がかかりそうですね」
「到着してそのまま儀式には入られないでしょうね。復旧工事やらが多いですし。とはいえ最重要事項ですからもう今から龍の儀式の準備は進められております。あちら側もそのためにソグから多くのものを持ってくるのですからこうして時間がかかるわけですし、しかしなにですかねジーナ君。急にこういうことを聞き始めて。さては君は……」
言いながら覗き込んでくるルーゲンは笑顔であったがその瞳は暗い色をしているとジーナは見た。
「龍の側近に戻りたいという意思がおありとか?」
「そうでしたらルーゲン師はそれに反対しますか?」
ルーゲンは覗き込むのをやめ真正面からジーナを見た。
瞳の色は変わらない、けれどもジーナは視線を外すことなく見て思う、私の瞳の色はいま金色であろうかと?
「こんな伝承があります。龍の血がついた戦士がいましたがそのものは龍に忌まれ追放をされた、と」
ルーゲンの瞳に変化は無かった。そうだとすると自分の瞳にも変化は無かったのだろう、とジーナは不思議と自己について判断した。
「君の身体には龍の血がついているかもしれない」
囁き声であるがはっきりと確かにゆっくりとルーゲンは短く言葉を繋げる。
「龍はそれを、忌むかもしれない」
「けれども血は消滅したと」
反論にルーゲンの眼は光る。
「それは人間には見えないだけということでしょう。龍は人智を超えたものです。見るものや感じるものに人間と違いがあると思うのが自然かと。ましてやその血は龍身様の一族のものです。龍身様がどう思うか、我々には未知数なことです。僧院の上層部ではその議題も取り上げられるかと思われます」
「一種の呪いであるというわけですね」
「そうとも言えましょう」
血は、いくらでもこの身についているとジーナは思った。西の我らの土地で幾度も龍の血に塗れ生きてきた。それどころかあの毒龍の血を身体に浴びた。
もしも龍に鋭い嗅覚があるのなら、神の領域に近い感性があるというのなら、自分の身体についている臭いの正体などとっくに分かっているはずである。
そうであるのにあの人は……ジーナはあの日のヘイムの言葉を口の中で唱えてから、言った。
「忌むと言われましたが、ヘイム様はそのようなことは決して言われないかと私は思います」
すると間が生まれルーゲンの眼に動揺が走り、首が後退した。眼が左右に動き、唇に指先をあて、呟いた。
「……誰?」
「えっ?」
説明不要なほど自明なことであるのにとジーナは絶句するとルーゲンの混乱はさらに拍車がかかり、指先は鼻頭に移り口は閉ざされ沈黙を以て返事とする。
その沈黙はそのままこう告げる。それは誰であるのかと? そういえばこの人は初めから……だからジーナは初めてルーゲンに説明をした。
「ヘイム様とは龍となるものですけれど……」
伝えるとまた少し間が生まれるもパッとルーゲンの顔に輝きが広がった。
「あっ! ああそうかそうかそうでしたね。龍身様の前名は久しく聞いていませんでして、困惑してしまい申し訳ない。てっきり僕の知らない龍の側近の一人かと思って一生懸命考えてしまって……あはははっこれは失態で」
これほど頭脳明晰な人であるのにそれを前名としてあつかい記憶から忘却をしているとは、とジーナの心は冷たくなった。もっと聞かなくては。
「あの、ルーゲン師はヘイム様とは……お呼びにならないのでしょうか?」
「その名の必要はもうありませんからね」
こともなげ言うルーゲンの姿が一瞬で遥か後方に移動したようにジーナには見え声も遠くから聞こえた。
「龍になるということは、そういうことです。驚きでしょうがこれは何も僕だけのことではなく皆が皆そうです。そもそもその名で呼んでいるのはごく限られた……君とシオン嬢ぐらいではないのですかね」
「……ハイネも」
忘れてしまいますよ……あの日の言葉が頭に過るもジーナは敢えてこう返した。
「ああ彼女の場合はシオン嬢と君の影響でそう呼んでいるのでしょう。僕との会話や他の時では龍身様の呼び名で統一はされていると思いますね」
「……どうして?」
「それはやはり君が不信仰者だからとしか言えません、ねぇジーナ君」
呼ぶルーゲンの声は甘く優しくハイネとも誰とも違う色をしていた。
だけどもいまは美しい色に薄汚れた黒点がひとつあるような感じをジーナは抱いた。
「それ以外にも龍の側近というのは君には向いていないと思うのは、そこです。これからあの御方は龍となられる。準備期間を終え仕上げに入り龍となる、何もかもがそこを前提として動き絶対に揺るぎません」
ルーゲンは口を閉じ三度瞬いた。それから合図のように問うた。
「君はそれでも側近になることを望みますか?」
反対であったのだろうがジーナは瞬かずに答えた。
「はい。思うところがありますので。今日のところはこれで失礼します。ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。迷惑だなんて君と話すのがすごく楽しいですから遠慮なさらずに来て下さい。分かりますよね? 僕は君と話したがっていることを」
そこには疑いは無かった。この人は私と会いたがり語りたがっている。
自分以外にこういうことをするようにもみえないぐらいに。
「分かります。あなたはとても楽しんでいらっしゃると」
「ええそうです。君はこの世界の理の外にいるものだ。僕の眼をいつも覚まさせてくれる。君の視線を借りて僕は龍の世界を外から見られる。そうすることによってより強く、新しい世界を作れるはずだからね。それは龍を導くものとして必要なものだ。そう思いませんか?」
ルーゲンはいつものように微笑むがジーナはそれをとても歪んでいると見た。そしてそう思うもののジーナは首を縦にはふらなかった。