チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声

第1章 夜にだけ流れる音

 六本木の駅を降り。地上にあがる。
 夜風が思いのほか涼しくて、志保は小さく身震いした。
 七月の終わり。昼間の熱気が嘘のように引いて、まるで海風がここまで届いたような涼しい風が街を撫でている。

「今夜は、踊れるかしら」

 小さく呟きながら、いつもの細い路地を曲がる。
 その先にある古びたネオン、「RUBY MOON」の看板が見えてくると、ようやく志保の気持ちがゆるむ。

 このライブハウスには、もう何年も通っている。
 最初はSNSで知り合った仲間たちと、週末ごとに集まっては踊った。みんなでポニーテールを揺らしながら、オールディーズに身を任せて笑い合った。

 けれど、結婚、転職、出産、介護……人生の波が次々と押し寄せて、ひとり抜け、ふたり抜け。
 今ではもう、誰も一緒に来ることはない。
 気がつけば、自分だけがこの場所に残っていた。

 無理もない。自分も、かつての仲間も、もうすぐ五十を迎える年齢なのだ。

 それでも──踊るのは、やめなかった。
 踊っている間だけ、仕事も、年齢も、静かな不安も、全部忘れられるから。

 施設では高齢者の献立を考え、咀嚼力に合わせたメニューを組み立てる毎日。
 管理栄養士という仕事にはやりがいがある。でも、どうしても「自分の時間」は後回しになる。
 だから週に一度だけ、自分の体を自由にする時間が欲しいと思った。
 それが、この場所だった。

 志保はドアを開ける。
 耳に入ってくる懐かしいリズム。跳ねるベースラインに、身体が自然に揺れる。

 グラスの音、笑い声、靴音。
 そのどれもが、彼女にとっては“生活”ではなく、“生きている”という実感だった。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から、渋い声がかかった。
 いつものスタッフかと思って軽く会釈した志保は、そこで足を止めた。

 見慣れない男が立っていた。
 黒のTシャツに色褪せた革ジャン。肩には少し丸みがあり、髪には白いものが混じっている。
 年齢は五十代の中頃だろうか。だが、その落ち着いた立ち姿には、若者にはない風合いがあった。
 使い込まれた革のように、柔らかく、どこか温かい。

 目が合うと、彼は口元に小さく笑みを浮かべた。
 派手さはない。ただ、静かな熱を隠したまなざしだった。

 志保は軽く会釈を返し、テーブルへ向かおうとした。けれど、その男の声は不思議と耳に残った。
 少しかすれているのに、深みがあり、音楽と同じくらい自然に馴染んでいた。
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