チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声
バンドがイントロを鳴らし始めると、志保は立ち上がった。
スカートの裾をさりげなく直し、リズムに合わせてゆっくりとフロアに向かう。
人波の中に、ひとりで立つ。
けれど、彼女は気にしていなかった。もう何年も、こうして一人で踊っている。
最初の数年は、誰かと連れ立って来ていた。けれど今は、誰もいない。
それでも、音が鳴れば身体が動く。ただ、それだけでいいと思っていた。
軽やかにステップを踏みながら、ターン。
手の動き、腰のひねり、視線の方向……どれも型にはまっているようでいて、自由だった。
心が音楽と一体になっているとき、志保は年齢も名前も忘れていた。
ただ“踊っている自分”だけがそこにいた。
何人かの男女が、彼女をちらりと見ていた。
それは冷やかしでも、賞賛でもない。ただ、そこに“踊れる人”がいるという認識。
志保は、目を合わせず、でも誇りをもって踊り続けた。
◇◇
バンドが数曲を終えると、照明が少しだけ落ちた。
客席からも拍手が起き、フロアの空気が変わる。
チークタイム。
ペアダンスの時間になると、志保は自然に踵を返し、フロアを出ようとした。
これが習慣のようになっている。一人では踊れない時間。
そう割り切って、席に戻ってドリンクでも頼むのがいつもの流れだった。
けれど、今日のその瞬間は、少し違った。
「すみません」
背後から、低く、けれどよく通る声が聞こえた。
ふと振り返ると、さきほどカウンターから声をかけてきた男が、志保の目の前に立っていた。
「あの……もし、よければ。次の一曲、踊ってもらえませんか」
志保は、戸惑った。
こんなふうに誘われるのは、もう何年ぶりだろう。
しかも、初対面の相手。客ではなく、店の人間——それも、妙に落ち着いた雰囲気をまとっている。
「……あの、ここで働いてる方ですか?」
男は軽く頷いた。
「ええ。オーナーをしています。片岡です」
少し恥ずかしそうに目を細める。「ずっと、あなたのこと、見てました」
その一言に、心が揺れた。
“見てました”という言葉の温度が、不思議と優しかった。視線ではなく、想いが積み重なっていたような響きがあった。
志保はふっと笑った。
「……そんなに目立ってました?」
「いえ。楽しそうだったから。誰よりも自然に、音に馴染んでいた」
ドラムが次の曲のリズムを刻み始める。スローで柔らかなバラード。
周囲では次々にペアが手を取り合い、フロアを埋めていく。
「一曲だけ、なら」
そう言うと、片岡は手を差し出した。
志保がその手を取ると、彼の手は思ったより温かかった。大きくて、でもどこか控えめな圧が心地よい。
フロアに立った瞬間、時間が少し巻き戻ったような気がした。
二十代の頃、三十代、四十代の初め。いくつもの“踊りたい夜”が胸に蘇る。
音楽に合わせて、片岡は静かに志保をリードした。
過剰な動きはなく、優しく、迷いのないステップ。
互いの間に言葉はなくても、呼吸は自然に重なっていた。
曲が終わる頃、志保は自分が踊りながら微笑んでいることに気づいた。
それは最近、自分でも見なくなっていた笑顔だった。
スカートの裾をさりげなく直し、リズムに合わせてゆっくりとフロアに向かう。
人波の中に、ひとりで立つ。
けれど、彼女は気にしていなかった。もう何年も、こうして一人で踊っている。
最初の数年は、誰かと連れ立って来ていた。けれど今は、誰もいない。
それでも、音が鳴れば身体が動く。ただ、それだけでいいと思っていた。
軽やかにステップを踏みながら、ターン。
手の動き、腰のひねり、視線の方向……どれも型にはまっているようでいて、自由だった。
心が音楽と一体になっているとき、志保は年齢も名前も忘れていた。
ただ“踊っている自分”だけがそこにいた。
何人かの男女が、彼女をちらりと見ていた。
それは冷やかしでも、賞賛でもない。ただ、そこに“踊れる人”がいるという認識。
志保は、目を合わせず、でも誇りをもって踊り続けた。
◇◇
バンドが数曲を終えると、照明が少しだけ落ちた。
客席からも拍手が起き、フロアの空気が変わる。
チークタイム。
ペアダンスの時間になると、志保は自然に踵を返し、フロアを出ようとした。
これが習慣のようになっている。一人では踊れない時間。
そう割り切って、席に戻ってドリンクでも頼むのがいつもの流れだった。
けれど、今日のその瞬間は、少し違った。
「すみません」
背後から、低く、けれどよく通る声が聞こえた。
ふと振り返ると、さきほどカウンターから声をかけてきた男が、志保の目の前に立っていた。
「あの……もし、よければ。次の一曲、踊ってもらえませんか」
志保は、戸惑った。
こんなふうに誘われるのは、もう何年ぶりだろう。
しかも、初対面の相手。客ではなく、店の人間——それも、妙に落ち着いた雰囲気をまとっている。
「……あの、ここで働いてる方ですか?」
男は軽く頷いた。
「ええ。オーナーをしています。片岡です」
少し恥ずかしそうに目を細める。「ずっと、あなたのこと、見てました」
その一言に、心が揺れた。
“見てました”という言葉の温度が、不思議と優しかった。視線ではなく、想いが積み重なっていたような響きがあった。
志保はふっと笑った。
「……そんなに目立ってました?」
「いえ。楽しそうだったから。誰よりも自然に、音に馴染んでいた」
ドラムが次の曲のリズムを刻み始める。スローで柔らかなバラード。
周囲では次々にペアが手を取り合い、フロアを埋めていく。
「一曲だけ、なら」
そう言うと、片岡は手を差し出した。
志保がその手を取ると、彼の手は思ったより温かかった。大きくて、でもどこか控えめな圧が心地よい。
フロアに立った瞬間、時間が少し巻き戻ったような気がした。
二十代の頃、三十代、四十代の初め。いくつもの“踊りたい夜”が胸に蘇る。
音楽に合わせて、片岡は静かに志保をリードした。
過剰な動きはなく、優しく、迷いのないステップ。
互いの間に言葉はなくても、呼吸は自然に重なっていた。
曲が終わる頃、志保は自分が踊りながら微笑んでいることに気づいた。
それは最近、自分でも見なくなっていた笑顔だった。