迷惑かけても、いいですか?
第六章:それでも、あなたを選びたい
咲良が退職を願い出たという噂は、突然のようで、でもどこか当然のように職場に広がった。
「やっぱり……」
「色々あったしね……」
社員たちは、まるで最初から何も知らなかったように、静かにその事実を受け入れていく。
でも、私は知っていた。
彼女の胸にどれほどの想いが積もっていたか、痛いほど分かっていた。
ある日の夕方、私は咲良に呼び出された。
場所は、人気のない踊り場の近くにある休憩室。
見慣れた制服姿の彼女は、どこかすっきりとした顔でそこに立っていた。
「辞めるの、私」
「……やっぱり、本当だったんだね」
「うん。潮時かなって思ったの。……ここにいても、私はずっと“あの人の好きな人”にはなれないから」
「咲良さん……」
「栞里ちゃんに謝らなきゃって、ずっと思ってたの。ずっと勝手に、敵視して、ごめんね」
「……そんな、私こそ……咲良さんの気持ち、全然分かってなくて……」
私たちは、初めてお互いの目をまっすぐに見ていた。
張り合うでもなく、否定するでもなく。
ただ、等身大のまま。
「私ね――神谷さんのこと、手放せなかったんだ」
咲良は小さく笑った。
「でも、ほんとはとっくに気づいてた。あの人が栞里ちゃんを見てる目は、私に向けてた目じゃなかったって」
「……」
「本当に好きって、ああいう顔になるんだね。……羨ましかったし、悔しかった。けど、同時にちょっと安心もしたんだよ?」
「え……?」
「だって、栞里ちゃんが選ばれてよかったって、そう思えた。……あの人を本当に大事にできるの、たぶんあなただけだから」
喉の奥がぎゅっと締まって、言葉が出なかった。
咲良はもう、戦うのをやめていた。
その代わりに、自分で“手放す”ことを選んだんだ。
「ねぇ、栞里ちゃん」
「……うん」
「今でも、時々思うよ。“私じゃだめだった?”って。……でも、答えは出てるから。大丈夫」
風が吹いて、彼女の髪を揺らした。
「神谷さんのこと、よろしくね。――ちゃんと幸せにしてあげて」
その言葉が、どれだけ強い覚悟の上に成り立っているのか、痛いほど分かった。
咲良は、もう振り返らない。
だから私も――
「ありがとう、咲良さん。……私、ちゃんと向き合う」
その夜、私は神谷さんを呼び出した。
きらめく川辺、あの日の並木道。
気づけば、ここが“私たちの場所”になっていた。
「……話したいことがあるの」
「うん」
神谷さんは、何も言わずに私の横に腰を下ろした。
「咲良さん……退職するって」
「……聞いたよ」
「……私のせいじゃない?」
「違うよ。それは、咲良さんが自分で選んだことだ。俺たちが悪いわけじゃない」
そう言ってくれるその優しさが、かえって心に刺さった。
「でも、誰かを選ぶって、やっぱり……誰かを傷つけることなんだね」
「……そうかもな」
「けど、私は――あなたを選んでよかった」
彼の瞳が、大きく揺れた。
「誰かに嫌われても、誤解されても、背負っていくって決めた。……それでも、私はあなたと生きていきたいって思ったの」
「……栞里」
私は手を差し出した。
「“迷惑かけてもいい?”じゃなくて、“一緒に生きてもいい?”って、今はちゃんと聞けるよ」
神谷さんは、その手をしっかりと握り返してくれた。
「うん。もちろんだよ。……むしろ、俺からお願いしたいくらいだ」
彼の手は、少し汗ばんで、でも温かくて――
あの日、誰の手にも触れられなかった私の心を、いま確かに抱きしめてくれていた。
私は、ひとりじゃない。
そう思える日が、本当に来るなんて。