ゆがむ、恋。
【過去編】第2話 「名前のない少年」(良規)
静かな夜だった。
耳を澄ませば、自分の心臓の音だけが、鼓膜を打ちつけてくる。
良規は、天井を見つめていた。
電気もつけず、ベッドに横になって、目だけを動かしている。
眠る理由もなければ、目を覚ましたい理由もなかった。
ただ、今日も死ななかった。
それだけが、彼の一日だった。
彼が“人間らしく”生きていた時間は、たぶん6歳までだった。
父親は暴力的だった。
母親は、その父の暴力から逃げられなかった。
泣くことを覚えた頃には、もう殴られる痛みにも慣れていた。
夜中に壁越しの叫び声が響く。
ドアを開けたら、母が泣きながら服を引き裂かれていた。
その視線の先で、良規は"どうすればいいのか分からなかった"。
ただ、じっと見ていた。
あのときから、彼の心のどこかが“凍った”。
7歳。
母が家を出た。
置き手紙には、ただ一言。
"ごめんね。幸せになって"
意味が分からなかった。
幸せって何? ごめんって何?
置き去りにされた息子は、やがて児童相談所に保護され、施設に入れられた。
施設での暮らしは、孤独の延長線だった。
"普通"の子どもたちは、仲間を作り、先生に甘え、笑っていた。
でも良規は違った。
無表情で、他人の顔色を窺い、いつもひとり隅にいた。
誰とも言葉を交わさず、誰の目も見なかった。
だけど、"観察"はしていた。
食べ方、歩き方、笑い方、怒り方。
人間がどんなふうに感情を出すのか……
それだけを、冷静に、じっと見ていた。
まるで、人間のフリをするために。
中学に上がった頃、同じ施設の年上の少年に暴行された。
夜中、布団の中に潜り込んできて、口を塞がれた。
誰にも助けは求めなかった。
声を出せば、殴られると分かっていたから。
その日以降、良規は"感情"を完全に閉ざした。
笑うことも、泣くことも、怒ることも、やめた。
教師にも友達にも、表面上は"いい子"に見せた。
だけど、心の中ではずっと、こう思っていた。
----------------------『人間は、醜い』-------------------------
高校は進学校に入った。
勉強はできた。
感情を切り離せば、機械のように知識を吸収できる。
優等生として通った3年間。
誰も、彼の本当の姿を知らなかった。
必要最低限の会話、笑顔の模倣、無難な距離感……
全部、彼が"観察"して真似たものだった。
けれど、心はいつも空洞だった。
誰かと繋がることが、怖かった。
近づかれたら、また裏切られる。
愛を向けられたら、また逃げられる。
それなら、最初から孤独でいればいい。
大学では心理学を専攻した。
“人間”を研究したかった。
他人の痛み、歪み、狂気、愛情……
それらを学問として知ることで、少しでも"理解"できる気がした。
だけど、講義を聞いても、書籍を読んでも、心には何も届かなかった。
なぜなら彼は、生まれてこのかた……
"誰かから本当に愛されたことが一度もない"のだから……。
社会人になっても、日々は虚無の繰り返しだった。
企業のマーケティング部で働き、数字と向き合う毎日。
スーツを着て、笑顔を作って、雑談して、帰宅する。
でも心の中では、"この人生、いつ終わってもいい"と、常に思っていた。
帰り道に橋の欄干を見ては、何度も体を乗り出した。
けれど、いつも足が止まった。
死ぬ勇気もなければ、生きる理由もない。
彼は、ただの“空っぽな存在”だった。
そんな時……
いつもの帰宅ルートとは違う駅で、ふと、彼女を見かけた。
夜10時すぎ、改札を抜けた先のベンチに、一人の女が座っていた。
顔はよく見えなかった。
けれど、その佇まいに、強烈な“孤独”を感じた。
----------------『この人も、壊れかけてる』------------------
なぜか、そう思った。
そして……
彼女がスマホを取り落とした瞬間。
良規は思わず、手を伸ばして拾っていた。
『落としましたよ』
たった、それだけ。
けれど、女は驚いたように顔を上げた。
その目は、まるで深い深い闇の底で、わずかに光を求めていた。
そして彼は、確信した。
--------------『この人は、自分と同じだ』--------------------
空っぽで、誰にも愛されず、壊れて、壊れて、それでもまだ、どこかで“誰か”を求めている。
そのとき、良規の中で“なにか”が確かに動いた。
耳を澄ませば、自分の心臓の音だけが、鼓膜を打ちつけてくる。
良規は、天井を見つめていた。
電気もつけず、ベッドに横になって、目だけを動かしている。
眠る理由もなければ、目を覚ましたい理由もなかった。
ただ、今日も死ななかった。
それだけが、彼の一日だった。
彼が“人間らしく”生きていた時間は、たぶん6歳までだった。
父親は暴力的だった。
母親は、その父の暴力から逃げられなかった。
泣くことを覚えた頃には、もう殴られる痛みにも慣れていた。
夜中に壁越しの叫び声が響く。
ドアを開けたら、母が泣きながら服を引き裂かれていた。
その視線の先で、良規は"どうすればいいのか分からなかった"。
ただ、じっと見ていた。
あのときから、彼の心のどこかが“凍った”。
7歳。
母が家を出た。
置き手紙には、ただ一言。
"ごめんね。幸せになって"
意味が分からなかった。
幸せって何? ごめんって何?
置き去りにされた息子は、やがて児童相談所に保護され、施設に入れられた。
施設での暮らしは、孤独の延長線だった。
"普通"の子どもたちは、仲間を作り、先生に甘え、笑っていた。
でも良規は違った。
無表情で、他人の顔色を窺い、いつもひとり隅にいた。
誰とも言葉を交わさず、誰の目も見なかった。
だけど、"観察"はしていた。
食べ方、歩き方、笑い方、怒り方。
人間がどんなふうに感情を出すのか……
それだけを、冷静に、じっと見ていた。
まるで、人間のフリをするために。
中学に上がった頃、同じ施設の年上の少年に暴行された。
夜中、布団の中に潜り込んできて、口を塞がれた。
誰にも助けは求めなかった。
声を出せば、殴られると分かっていたから。
その日以降、良規は"感情"を完全に閉ざした。
笑うことも、泣くことも、怒ることも、やめた。
教師にも友達にも、表面上は"いい子"に見せた。
だけど、心の中ではずっと、こう思っていた。
----------------------『人間は、醜い』-------------------------
高校は進学校に入った。
勉強はできた。
感情を切り離せば、機械のように知識を吸収できる。
優等生として通った3年間。
誰も、彼の本当の姿を知らなかった。
必要最低限の会話、笑顔の模倣、無難な距離感……
全部、彼が"観察"して真似たものだった。
けれど、心はいつも空洞だった。
誰かと繋がることが、怖かった。
近づかれたら、また裏切られる。
愛を向けられたら、また逃げられる。
それなら、最初から孤独でいればいい。
大学では心理学を専攻した。
“人間”を研究したかった。
他人の痛み、歪み、狂気、愛情……
それらを学問として知ることで、少しでも"理解"できる気がした。
だけど、講義を聞いても、書籍を読んでも、心には何も届かなかった。
なぜなら彼は、生まれてこのかた……
"誰かから本当に愛されたことが一度もない"のだから……。
社会人になっても、日々は虚無の繰り返しだった。
企業のマーケティング部で働き、数字と向き合う毎日。
スーツを着て、笑顔を作って、雑談して、帰宅する。
でも心の中では、"この人生、いつ終わってもいい"と、常に思っていた。
帰り道に橋の欄干を見ては、何度も体を乗り出した。
けれど、いつも足が止まった。
死ぬ勇気もなければ、生きる理由もない。
彼は、ただの“空っぽな存在”だった。
そんな時……
いつもの帰宅ルートとは違う駅で、ふと、彼女を見かけた。
夜10時すぎ、改札を抜けた先のベンチに、一人の女が座っていた。
顔はよく見えなかった。
けれど、その佇まいに、強烈な“孤独”を感じた。
----------------『この人も、壊れかけてる』------------------
なぜか、そう思った。
そして……
彼女がスマホを取り落とした瞬間。
良規は思わず、手を伸ばして拾っていた。
『落としましたよ』
たった、それだけ。
けれど、女は驚いたように顔を上げた。
その目は、まるで深い深い闇の底で、わずかに光を求めていた。
そして彼は、確信した。
--------------『この人は、自分と同じだ』--------------------
空っぽで、誰にも愛されず、壊れて、壊れて、それでもまだ、どこかで“誰か”を求めている。
そのとき、良規の中で“なにか”が確かに動いた。