旦那様は二人きりになると無口になるから仮初の夫婦なのかと思っていたけど、意外とそうでもなかった
「すごい……」

 丘の広場を少し進むと、木で作られたベンチが一つだけ置かれている。
 その向こうは断崖絶壁だが、先ほどよりも海の光景と、音と、匂いが、より強く感じられるようになっていた。

「こちらへ」
「あ、ありがとうございます」

 旦那様はどこからか取り出したハンカチをベンチに置き、私をそこに座るように促す。
 とくにそれを無下にする必要もないので、言われるがままに座る。すると旦那様は人一人分ほどの距離を開けて左隣に座った。

(絶妙に開いてるわね……)

 遠いとは言えないが、決して近いとは言えない距離。そこにどんな意図があるのだろうか。
 そんなことを考えながら、私は前方に広がる海をじっと見つめる。
 旦那様もまた海を眺めているのか、黙ったままだ。

(…………いや、気まずい……!)

 御者の方は、遠くに止めている馬車で待っているから、ここには私と旦那様しかいない。
 なのに会話がないなんて……!

「だ、旦那様!」
「……ああ」
「海、綺麗です!」
「……ああ」

 勢いよく言葉をかけたが、返ってきたのはシンプルな言葉だけだった。
 再び会話が終了し、波の音のほうが強くなる。

(どうやって会話しろって言うのよ……!)

 心の中でリズに助けを求めようとするも、想像上のリズはサムズアップをして「頑張ってくださいね!」としか言ってくれない。

(とりあえず、策を練ろう)

 そう思った私は旦那様にならって海の光景を見つめることにした。
 青々とした水面には夕陽が反射して、しょっぱいような匂いが鼻をくすぐる。
 ざざんという音は絶えず聞こえていて、人のいない静かな場所だけど静かすぎるわけでもないので、思考をまとめるにはもってこいの場所かしら、なんて思った。

(というかここ、たぶん侯爵家が持つ土地よね……?)

 ちらりと目だけで辺りを見回す。
 貴族が赴く場所というと、飾りの多い高級な椅子にパラソルのあるテーブルがセットされていて、足元もヒールの高い靴でも難なく歩けるように整備されていることがほとんどだ。
 しかしここはそうではない。
 多少整備こそされてはいるものの華美な服装では浮いてしまうし、高級品やパラソルといった『貴族受け』するものは一つもない。
 今座っているベンチも手作り感が強いもので、お世辞にもどこかの匠が作ったものとは言えない。
 だからといって庶民の方々が集まる場所ではない、というのは、このあたりに人影がまったくないところから容易に想像はできた。

(うーん……気になる……)

 はたして旦那様は教えてくれるのだろうか……?

「旦那様?」
「うん?」

 思いの外弱くなってしまった問いかけだったが、旦那様は聞き漏らさずにこちらを向いてくれた。

「ここはもしかして……フォンダン侯爵家の持つ土地でしょうか?」
「…………いや」

 旦那様は十数秒ほど考え込んだのち、かぶりを振った。
 そして再び視線を海に向けると、ゆっくりと続けた。

「ここは、私の土地だ」
「旦那様の?」
「ああ……疲れたときとか、考えをまとめたいときに使う」
「なるほど……」

 再び辺りには波が陸に打ち上げられる音だけが響き始める。
 だが私にそれを聞いている余裕はなかった。

(ということはもしかして私の我が儘のせいで、考えをまとめたいときの静かな場所を踏み荒らしてしまった、ということ!?)

 外面は平静を保ちながらも、内心は焦りまくり頭を抱えている。
 おそらくここは、旦那様が仕事やプライベートで悩みを持っていたときにやってきて、一人で解決策などを考える重要なスペース。
 それを私という存在がずかずかと入り込んでしまったことになる。

(なんてこと……!)

「だ、旦那様!」
「…………?」

 私はすぐさま立ち上がり旦那様の前に立つ。
 そしてガバリと勢いよく頭を下げた。

「すみません! そんな大事なところとは知らずに!」
「……」
「でしたら私はすぐにでも馬車に戻ったほうがいいと思いますので、すぐにでも――」

 顔を上げてそう言い、すぐさま退散しようとしたとき。

「もう少し待ってくれ」
「え? ……きゃっ!?」

 腕をぐいっと引っ張られたかと思うと、旦那様のすぐ隣に座らされてしまった。

(旦那様の体が温かくて気持ちいい…………じゃなくて!)

 腰には旦那様の腕が回っていて、ぎゅっと離れないように密着させられている。
 とはいえ太く筋肉のしっかりとついた腕だが痛いほど強く抱かれているわけではない。
 慌てふためきながら旦那様を見上げると、彼はじっと夕陽を見つめていた。

「……そろそろだ」

 夕陽はそろそろ水平線に接近する頃合い。
 きっと綺麗な光景が見えるのだろうな、と思う一方、肌にあたる潮風が寒くなってきた。

「……くしゅん!」
「…………すまない」

 思わずくしゃみをすると、肩にパサリと何かがかかる。
 見るとそれは、旦那様のジャケットだった。
 旦那様が普段お休みの日につけている爽やかな香りの香水が鼻腔をくすぐる。
 そうしてそのまま今度は再び、ぎゅっとジャケット越しに抱きしめられた。
 旦那様の熱と香りを余計に強く感じて、なんだか気恥ずかしくなって顔が熱くなる。

(なんでこんな急にスキンシップを!?)

 思考の回転が追いつかない私をよそに、旦那様はもう片方の手で夕陽を指さした。

「…………あれを見たかった」

 旦那様が指さす先を見る。
 水平線に半分かかった夕陽が水面に反射して、きれいな丸を見せていた。

「綺麗……」

(……いや、綺麗なんだけど、これにどんな意味があるのかしら?)

 目を奪われるほど綺麗な光景ではあるものの、意図が分からず首を傾げてしまう。

「旦那様……これは」

 彼を見上げてそう問おうとしたが、旦那様はこちらを見下ろして固まっていた。
 よくよく見ると、見下ろしていたのは私というよりは私を抱く自身の腕。
 普段の無表情ではあるものの、よくよく見ると少しだけ驚いたような表情に見えるかもしれない旦那様は、そのままじっと動かなかった。

「え? 旦那様? ちょっと?」

 やがて夕陽が落ち切って少ししてから旦那様は無事に動き始めた。
 しかし、帰りの馬車でも、その後の夕食でも、どうしてか旦那様はぎこちなかった。
< 11 / 30 >

この作品をシェア

pagetop