旦那様は二人きりになると無口になるから仮初の夫婦なのかと思っていたけど、意外とそうでもなかった
「あれが、海……?」
「ああ」

 街道に植わる木々から覗くのは、青色の水面。まだまだとても遠いところにあるけれど、初めて見るそれに私は釘付けになった。
 遠くに見えるそれだが、キラキラと光っていて、とても綺麗だ。

「わぁ……すごいです」

 実家は林業が盛んな山の中。切り出した木々を運ぶのに川は使うが、海までは運ばず途中の大きな街で引き渡してしまう。
 だから、川が海まで続くという事実は知っていたが、実際に海というものを見るのは初めてだった。

「旦那様! すごいですね!」
「ああ」
「青いです! 青い!」
「ああ」

 旦那様は私をじっと見つめて、かすかに口角を上げた。

「旦那様は海を見たことがあるんですか?」
「ああ」

 すっかり気分が上がり、私はすうっといっぱいに息を吸い込んだ。口から吸い込むと、なんだかしょっぱくて、思わず眉間に皺が寄る。
 それでも窓枠を持って外を見続けていると、ふいに「ふふ」という笑い声が聞こえた。
 ハッとして振り返ると、旦那様が口に手をやりそっぽを向いていた。

「…………いま、笑いました?」
「…………いや」

 そう答える旦那様の表情は、いつもと同じ。しかし肩がかすかに震えている。

「笑ってますね?」
「……いや、あの……すまない……」

 ついには「ふっ」と吹き出したようで、私への謝罪をするなり黙り込んでしまった。
 まぁ、黙り込んでいる……というよりは、笑わないように耐えている、というのが正確かもしれないけれど。
 恥ずかしさのあまり顔が熱くなって、居住まいを正して咳払いをすると、ふん、と顔を背ける。
 少しの間、馬車が砂利を踏みしめる音と旦那様が息を吐く音が、馬車の中に響いていた。


 それから一時間ほど。
 相変わらず旦那様の笑いが落ち着いたあとは、再び静寂のままだった馬車だったけれど、出発時よりは少しだけ会話することができた。
 たとえば、実家の領地の話だったり、実家の名産品の話だったり……というかそれしかしなかったのだけれど。

(こういうのって普通、新婚すぐとか、結婚する前に話すものじゃないのかしら……?)

 海の青が近くなった車窓を見ながら、私は内心で首を傾げていた。

 ――ただまぁ、それはいい。

 私たちは会話が極めて少なかった夫婦だったから、こういう新婚夫婦がやるような会話から始めておくのがきっとベストなのだろう。
 私はそれよりも重大な問題を抱えていた。

(話が続かないんだけど……!?)

 リズの言う通り会話をしようとした私は旦那様にいろいろと問いかけるものの、帰ってくるのは「あぁ」か「そうだな」くらい。そこで会話が途切れるのだ。

(というかそもそも、旦那様が私を見てくれないのよね)

 まともに視線が合ったのは、ケーキの話をしていたときくらい。それ以外こそ旦那様は本を椅子に置いていたが、外を見ているか、私から視線を外しながら返事をしていた。

(やっぱり、あまり良くは思われていないのかしらね)

 そう思った矢先、馬車が動きを止めた。

「着いたぞ」

 旦那様が外を見ながらそう言う。そのすぐあとに御者の方が馬車の扉を開けてくれた。
 一歩出ると、そこは小高い丘の頂上だった。木々などがない芝がメインの広場のようで、遠景を遮るものがない。そして奥のほうには、先ほど馬車から見た様子とは全く異なる、大きな青一面が広がっていた。
 普通に息をしているだけで、しょっぱい匂いが身体中に浸透していくよう。
 ざざん、と音が聞こえる。これが波の音だろう。
 周囲には私たち以外の誰もいないのに、耳に入ってくる音の情報量が多くて、不思議な気分だ。
 先に外で待っていた旦那様は、いつもの表情で私に手を差し出す。

「足元に気を付けるように」
「ええ、ありがとうございます」

 その手に自分の手を乗せ、私は旦那様とともに広場の中へと、歩みを進めた。
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