恋はもっと、すぐそばに

第3章 安全な檻の中で

美咲は夕暮れの人波に紛れながら、混乱した思考を整理しようとしていた。編集長の言葉が頭の中で何度も反響する。「女性らしい感性がない」「軽やかに、恋愛とファッション」。

歩きながら無意識にスマホを取り出し、ニュースアプリを開く。経済記事のタイトルが目に飛び込んできた。「新興国市場の構造変化が示唆する未来」。指が記事に向かいかけたその瞬間、美咲は慌ててアプリを閉じた。

やっぱり私は普通じゃないのかも。

周囲を見回すと、同年代の女性たちが楽しそうにファッションの話をしている。「このコーデ、インスタ映えするよね」「今度のデート服、どうしよう」。彼女たちの笑顔は屈託がなく、輝いて見えた。

美咲は立ち止まり、自分の胸に手を当てた。みんなは当たり前のようにそういう話題で盛り上がれるのに、どうして私は違和感を覚えるんだろう。

いつもの書店前に差し掛かった時、足が勝手に止まった。入口のベストセラーコーナーには色とりどりの本が平積みされている。「運命の恋に気づく方法」「幸せになれる恋愛術」。タイトルを見ているだけで、何か遠い世界の話のように感じられた。

美咲は小さくため息をついた。こういうのを読むべきなのかな。みんなが求めているものを、私も求められるようになるべきなのかな。

本棚の奥に見える哲学書コーナーに視線が向かう。そこには「幸福論」や「自己実現の心理学」といった背表紙が並んでいた。心が引かれるのを感じながらも、美咲は首を振った。

やめよう。また難しいことを考えて、みんなから浮いてしまう。

足を向けようとした瞬間、店内の女性客が恋愛小説を手に取りながら友人と話しているのが聞こえてきた。

「やっぱりこういうのっていいよね。現実逃避できるし」

「そうそう、仕事のことなんて忘れられる。難しいこと考えなくていいし」

美咲の足が再び止まった。現実逃避。難しいことを考えない。その言葉が胸に突き刺さる。

書店の前を通り過ぎ、駅に向かう。電車のホームで、いつもより早い時間の電車を選んだ。車内は比較的空いていて、座席に座ると疲れがどっと押し寄せてきた。

もう深く考えるのはやめよう。編集長の言う通り、女性らしく、軽やかに生きればいいんだ。

スマホを取り出し、恋愛ゲームのアプリを検索してみる。画面に表示される可愛らしいキャラクターと甘いストーリーの説明文。ダウンロードボタンに指を近づけた。

でも、その指は画面に触れることができなかった。

何かが違う。これは本当に私が求めているものなんだろうか。

美咲は結局アプリを閉じ、ぼんやりと窓の外を見つめた。夕日に染まる街並みが流れていく。どの建物も、どの風景も、どこか遠くにあるもののように感じられた。

変わらなきゃいけないのは私の方。でも、どう変わればいいのか分からない。

電車は次の駅に滑り込む。乗客が入れ替わる中、美咲は座席に座り続けていた。答えの見つからない問いを抱えながら、安全な現状に留まることを選んだ自分を、どこか冷めた目で見つめていた。

家に帰れば、一人きりの時間が待っている。そこでなら、本当の自分でいられる。でも、それ以外の場所では、やはり期待される自分を演じ続けなければならないのだろう。

美咲は小さく目を閉じた。変化への扉は目の前にあるのに、それを開く勇気が見つからずにいる自分を、静かに受け入れようとしていた。
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